鉄血政策(読み)てっけつせいさく(英語表記)Blut und Eisen

  • Eisen und Blut-Politik ドイツ語

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ドイツ統一の際,プロシア宰相 O.ビスマルクがとった政策。 1848年のドイツ三月革命,その後のフランクフルト国民議会によるドイツ統一の失敗ののち,62年プロシアの宰相に就任したビスマルクは議会を停会したまま軍備拡張を実行し,63年オーストリアを誘ってデンマークに宣戦し,2つの州をその支配下においた。さらに 66年にはオーストリアに宣戦し (→プロシア=オーストリア戦争 ) ,ドイツ連邦の解体とオーストリアを除外する北ドイツ連邦を成立させ,連邦の統治権をプロシア王のもとにおいた。また,70年には,第二帝政下のフランスとの戦争 (→普仏戦争 ) に勝利を収め,71年1月 18日ベルサイユにおいて,プロシア王ウィルヘルム1世のドイツ帝国皇帝としての戴冠式を行い,宿願のドイツ統一を達成した。宰相就任1週間後の 62年9月 29日プロシア議会の予算委員会において,議会と予算審議権や軍制改革について争い,言論多数決によっては現下の大問題は解決しない,鉄と血によってのみ問題は解決されると宣言した。ここから,ビスマルクの武力によるドイツ統一政策を鉄血政策と呼ぶようになった。

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世界大百科事典 第2版の解説

ビスマルクのドイツ統一政策に対する呼称プロイセン憲法紛争が激化してきた1862年,プロイセン首相となったビスマルクは9月30日に,下院予算委員会で〈現下の大問題は言論や多数決によってではなく,血と鉄Blut und Eisenによってのみ解決される〉と演説した。ここから彼の政策は〈鉄血政策〉と称せられ,軍事力によるドイツ統一政策の別称となった。この政策はドイツ統一の推進という〈正〉の側面と軍国主義の高進という〈〉の側面との両面から把握される必要がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ビスマルクが1860年代ドイツの統一を進めるためにとった内外政策。プロイセン政府は、60年軍備増強のため軍制改革案を議会(下院)に上程した。議会多数派は反対し、深刻な憲法紛争となった。62年9月、この窮境を救うため首相に任命されたビスマルクは、就任直後下院の演説で、「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」と言明し、議会の反対を無視して予算を執行、軍備増強を行った。この軍事力でもってオーストリアとフランスを破り、ドイツ統一を達成した。このため当時の人はビスマルクを「鉄血宰相」、彼の政策を「鉄血政策」とよんだ。

[木谷 勤]

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精選版 日本国語大辞典の解説

ビスマルクのとったドイツ統一政策。一八六二年、プロイセン首相ビスマルクが、ドイツの統一は雄弁や多数決によってではなく、鉄と血、すなわち兵器と兵力によってのみ達成されると主張したことに由来する。プロイセン議会の自由主義者と対立し、軍備を拡張し、軍部とユンカーを中心とする統一を進めた。
※現代文明を評し、当来の新文明を卜す(1915)〈中沢臨川〉九「ビスマルクの鉄血政策でもが、マルクスの資本論でもが」

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

ビスマルクの行ったドイツ統一政策の呼称
ビスマルクは1862年首相となると,プロイセンを盟主としたドイツ統一のためには,他のドイツ連邦諸国,特にオーストリアの反対を打破できる実力をもたなければならないと考え,軍備大拡張を企てて議会と衝突した。同年9月,「今日の大問題は演説や多数決をもってしてはとうてい解決されえない。それはただ鉄と血によってのみ解決されるものである」と議会で述べ,プロイセン軍国主義を推進した。

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