鉢形(読み)はちがた

日本歴史地名大系 「鉢形」の解説

鉢形
はちがた

荒川右岸に位置し、深沢ふかざわ川が北流して荒川に合流する。現寄居町鉢形付近にあたり、戦国期には鉢形城城下といわれ、近世には立原たてはら木持きもち白岩しらいわ内宿うちじゆく関山せきやま甘粕あまかす六ヵ村の総称として鉢形町呼称があった(「風土記稿」など)

〔中世〕

元亨元年(一三二一)九月六日の島津忠宗置文(島津家文書)によると、忠宗は「一むさしのくにはちかたの越訴」等を子息貞久が行うように定めており、鉢形が島津氏の所領であった可能性がある。文明一二年(一四八〇)一一月二八日の太田道灌書状写(松平文庫所蔵文書)に鉢形が散見するが、これ以降の戦国期の多くの史料では鉢形城と同義として鉢形の呼称が使用されている。延徳元年(一四八九)三月一日の上杉定正書状写(古証文)は子息朝良のために自らの事績を列挙したものであるが、そのなかに「一鉢形仕付憲房申、上州一揆悉服長尾幕下」とみえる。現小川おがわ八和田やわた神社所蔵の同三年四月八日の年紀がある鰐口に「武州男衾郡鉢形錦入新井佐土(ママ)守」とみえる。

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改訂新版 世界大百科事典 「鉢形」の意味・わかりやすい解説

鉢形 (はちがた)

埼玉県大里郡寄居町の地名。中世・近世には男衾(おぶすま)郡のうち。1476年(文明8)上野白井の長尾景春が主家の山内上杉顕定に反して鉢形城に拠ったが,78年太田道灌がこれを攻略,上杉氏の属城になり,その重臣藤田康邦の支配下におかれた。のち,北条氏康は三男氏邦を藤田氏の養子に入れてその旧領を掌握し,武蔵・上野支配の拠点とした。氏邦はやがて鉢形城に入って男衾,那賀秩父児玉,賀美,榛沢などの武蔵北西部諸郡を支配。この鉢形城を中心とした氏邦の支配領域を鉢形領といい,その家臣団を鉢形衆といった。交通の要衝に位置し,城の主郭は荒川に面した河岸段丘絶壁の上にあり,東は深沢川で区切られた天然の要害。鉄砲小路,鍛冶小路,連雀小路などの整然とした町割りによる城下町も造られた。1590年(天正18)6月14日落城し廃城となる。江戸時代には城回りの集落が独立して木持,白岩関山甘粕,内宿,立原の6村となるが,これらを鉢形町と総称した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鉢形」の意味・わかりやすい解説

鉢形
はちがた

埼玉県北西部,寄居町の地区。荒川の南岸にあり,鉢形城跡がある。鉢形城は前面を荒川支流の深沢川の谷,背後を荒川の絶壁で仕切られた平山城で,中世,長尾景春により築かれたが,のち北条氏に帰し,天正 18 (1590) 年豊臣秀吉の軍に落された。山城形態をとどめた城跡は史跡

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