長岡城跡
ながおかじようあと
[現在地名]長岡市城内町一―三丁目・大手通一―二丁目・東坂之上町一―三丁目・坂之上町一―二丁目
国鉄長岡駅を中心とした地域。駅は本丸の東部分にあたる。城域は都市化が激しく、現在市の中心街となっており、駅の西方に延びる大手通に面して建立されている城内稲荷が所在を示すのみ。城は東に八町沼などの沼地を隔てて東山丘陵、西に信濃川が北流する浮島状の土地に築かれたことから浮島城とも称し、大手口門と神田口門が兜の鍬形のように八文字形をなすことから八文字構浮島城とも苧引形兜城とも称した。慶長七年(一六〇二)蔵王堂城主堀親良病没後、養子鶴千代が幼少のため坂戸城(現南魚沼郡六日町)城主堀直寄(自署は直竒)が後見役となり蔵王堂城を支配。南の現在地に新規築城を行ったのは、蔵王堂城が信濃川による洪水や流路変動などで土地の浸食を受けたためといわれる。
長岡城跡
ながおかじようあと
[現在地名]紫波町西長岡 下和野
西長岡の北東部、天王川下流左岸の館山山頂に位置。斯波氏の重臣長岡八右衛門詮尹の居城と伝える。天正一六年(一五八八)斯波孫三郎詮直が南部信直の攻略をうけた時、長岡には一揆が起こり長岡氏も身動きできず、孤立無援の斯波詮直は一戦も交えず山王海へ亡命したと伝えられる(「奥南旧指録」など)。南部領諸城破却書上には南部東権助持分とあって平城とされているが、当城は山城であり、これは居館が平地にあったことによるという。
長岡城跡
ながおかじようあと
北西方向に流れる犀川右岸、現花輪線の沿線に存立。扇田城ともいう。織豊期の城館で、浅利則頼が独鈷に居城した頃の支城といわれるが(秋田風土記)、「郷村史略」には則頼の子勝頼の築城とある。
単郭式平山城で西側を犀川が流れ、自然の防御をなす。南と北側に空堀が一条ずつ走り、その間に東西およそ四五〇メートル、南北およそ八〇メートルの郭を構成、周囲に帯郭および腰郭を配す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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