長谷場純孝(読み)はせば・すみたか

朝日日本歴史人物事典 「長谷場純孝」の解説

長谷場純孝

没年:大正3.3.15(1914)
生年安政1.4.1(1854.4.27)
明治大正期の政党政治家。号は致堂。薩摩国日置郡串木野郷(鹿児島県串木野市)に,藩営芹ケ野金山の奉行を務める郷士藤蔵と母(名は不明,児玉氏)の間に生まれる。薩摩学寮に学び,若くして西郷隆盛知遇を得る。明治4(1871)年上京し,翌年警視庁巡査となり,少警部に進む。7年,西郷を慕って郷里にもどり,私学校に入り,西南戦争では負傷し,捕らえられて懲役3年の刑を受けた。出獄後,国会開設運動に加わり,14,15年の九州改進党大会に出席,16年にはその鹿児島支部を創設した。18~20年県会議員,20~23年薩摩郡など4郡の郡長となる。23年の第1回以後,45年の第11回総選挙まで衆院議員に連続当選を果たし,立憲自由党,同志倶楽部,立憲革新党,進歩党,憲政党に所属。地価修正,足尾鉱毒問題に尽力した。33年には立憲政友会創設に参画し,同党領袖のひとりとなる。41~44年に衆院議長を務め,44年第2次西園寺公望内閣の文相となったが,翌年持病悪化のため辞任。大正3(1914)年,大岡育造が文相に転じたあとを襲い再び衆院議長となり,シーメンス事件で混乱する議事運営に当たるうちに,胸部大動脈瘤が悪化し,在職のまま亡くなった。狩猟趣味とし,猟犬を愛した。<著作>『欧米歴遊日誌―付樺太韓国紀行』『西郷南洲』<参考文献>富宿一善編『長谷場純孝先生伝』

(柴崎力栄)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長谷場純孝」の意味・わかりやすい解説

長谷場純孝
はせばすみたか

[生]安政1(1854).4.1. 鹿児島
[没]1914.3.15. 東京
政治家。藩校に学び,維新後明治政府に出仕,警視庁少警部となったが,西郷隆盛征韓論に敗れて下野したため,これに従い帰国。 1877年西南戦争には西郷軍に加わったが敗れ,投獄された。 80年出獄後,九州改進党に参加,民権運動に奔走し,国会開設後,鹿児島県より衆議院議員に当選。自由党に所属した。 1908年衆議院議長に選ばれ,11年には第2次西園寺内閣に文相として入閣したが,14年再び衆議院議長に選出された直後,病死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷場純孝」の解説

長谷場純孝 はせば-すみたか

1854-1914 明治-大正時代の政治家。
嘉永(かえい)7年4月1日生まれ。西南戦争で西郷軍にくわわり,捕らわれて下獄。出獄後,民権運動に参加し,明治23年衆議院議員(当選11回)。33年政友会の創立に参画。のち衆議院議長,第2次西園寺内閣の文相をつとめた。大正3年3月15日死去。61歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。号は致堂。

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