長谷川勘兵衛(読み)はせがわかんべえ

精選版 日本国語大辞典 「長谷川勘兵衛」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐かんべえ【長谷川勘兵衛】

  1. 歌舞伎大道具師
  2. [ 一 ] 初世。江戸日本橋宮大工の子。中村座をはじめ、江戸の各座に出入りして書割や出道具類を請負った。万治二年(一六五九)没。
  3. [ 二 ] 八世。大道具と小道具との区分制度を定め、二重舞台道具幕などを巧緻にし、江戸最初の回り舞台を完成。天明五年(一七八五)没。
  4. [ 三 ] 一一世。長谷川家中興の祖。蛇の目回し、土間の引割り、三重の塔のせりや怪談物の道具仕掛けに手腕をみせた。安永八~天保一二年(一七七九‐一八四一

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改訂新版 世界大百科事典 「長谷川勘兵衛」の意味・わかりやすい解説

長谷川勘兵衛 (はせがわかんべえ)

歌舞伎大道具師。現在まで17世代に及ぶ。初世(?-1659(万治2))は江戸日本橋の宮大工の子で専門大道具師の元祖として明暦(1655-58)ごろ活躍した。6世(?-1737)のころに大道具の仕事を独占的なものとした。江戸での回り舞台や《金閣寺》の大ゼリを作った8世(?-1785(天明5)),3世尾上菊五郎と提携して怪談物の仕掛道具を発明した11世(1781-1841・天明1-天保12),その孫で明治時代に名人とうたわれた14世(1847-1929・弘化4-昭和4)らが大道具長谷川の伝統を守り,地歩を着実に固め,同時に歌舞伎大道具の発達を促してきた。16世(1889-1964・明治22-昭和39)は,13世の次男の養子で本名を源次郎といい,東京の歌舞伎座の大道具を担当し,1951年には長谷川大道具株式会社を設立した。17世(1924(大正13)- )は本名信次郎,16世の子として生まれ,父没後同社を引き継いで活躍している。
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20世紀日本人名事典 「長谷川勘兵衛」の解説

長谷川 勘兵衛(16代目)
ハセガワ カンベエ

大正・昭和期の歌舞伎大道具師



生年
明治22(1889)年3月8日

没年
昭和39(1964)年1月16日

出生地
東京・浅草

本名
長谷川 源次郎

旧姓(旧名)
田中

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和32年〕

経歴
主に歌舞伎座を担当し、6代目菊五郎、初代吉右衛門らの大道具師として働いた。昭和24年長谷川大道具株式会社を設立。26年戦災で焼失した歌舞伎座の復興と同時に大道具の機械化や、心木の改良などの舞台製作に取り組む。能楽、歌舞伎の海外公演でも大道具を担当、国際的にも活動した。日本舞台美術家協会副会長。


長谷川 勘兵衛(14代目)
ハセガワ カンベエ

江戸時代末期〜昭和期の歌舞伎大道具師



生年
弘化4年(1847年)

没年
昭和4(1929)年10月1日

出生地
江戸

別名
幼名=忠八,晩名=寿叟,画名=忠清

経歴
5代目尾上菊五郎と幼な友達で、風船乗りや曲馬などの仕掛に工夫をこらし、「芝居の大道具は長谷川」と称され大道具の基礎を築いた名人。大正10年ごろ長谷川は本家と分家とに分かれ、本家を取りしきって、歌舞伎座、帝劇、市村座を担当した。また、絵画、彫刻などをたしなみ、特に似顔絵が巧みであった。

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朝日日本歴史人物事典 「長谷川勘兵衛」の解説

長谷川勘兵衛(11代)

没年:天保12.8.8(1841.9.22)
生年:天明1(1781)
文化文政期の江戸で活躍した歌舞伎大道具方の棟梁。3代目尾上菊五郎と親しく,4代目鶴屋南北作「東海道四谷怪談」の戸板返し,提灯抜けの仕掛けなどの考案,同じく南北作「独道中五十三次」の6幕25場53段返しにおよぶ大道具の転換法を創案するなど,仕掛け物に才能を発揮した。蛇の目回し,引割,迫りなど舞台機構の改良にも努め,長谷川家中興の祖といわれる。 孫に当たる14代目勘兵衛は明治期に活躍し,5代目菊五郎主演の河竹黙阿弥作「鳴響茶利音曲馬」「風船乗評判高閣」(通称「スペンサーの風船乗り」)の仕掛けを成功させ,また明治20(1887)年に最初の天覧歌舞伎が行われた井上馨外相邸の仮設舞台の設計や,37年アメリカ・セントルイスにおける万国博覧会の日光陽明門の模型建造など,開化期にふさわしい大道具方として名を残した。<参考文献>14代目長谷川勘兵衛・安部豊「劇界秘録/長谷川勘兵衛実話」(『演芸画報』1928年2月~29年1月号)

(藤波隆之)


長谷川勘兵衛(初代)

没年:万治2.3.4(1659.4.25)
生年:生年不詳
江戸前期,江戸における歌舞伎大道具師の元祖。江戸日本橋の宮大工上谷甚三の子。幼名清五郎。寛永1(1624)年に猿若(中村)勘三郎の猿若(のちの中村)座が江戸中橋南地(中央区日本橋)に建てられたのが,江戸における常設の歌舞伎劇場のはじめである。次いで市村座,森田(のちに守田)座,山村座(江島生島事件で廃絶)の4座が公許されたが,初代勘兵衛は,没年にいたるまで中村座を起点として各座に出入りし,書割や出道具類を請け負って大道具全般を担当する基礎を固めた。初代の子2代目の代の寛文4(1664)年に市村座で引幕が考案され,それまでの放れ狂言にかわって多幕物の続き狂言が誕生し,柴垣や立ち木を含めた道具建てが設けられるようになったという。以来約350年にわたり,代々の勘兵衛によって,家業が継承されている。<参考文献>17代目長谷川勘兵衛編『大道具 長谷川勘兵衛』

(藤波隆之)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川勘兵衛」の意味・わかりやすい解説

長谷川勘兵衛
はせがわかんべえ

歌舞伎(かぶき)大道具師。江戸日本橋の宮大工の子で、専門大道具師の元祖として明暦(めいれき)(1655~1658)ごろに活躍した初世に始まり、17世を数える。大道具の仕事を独占的にしたのは6世(?―1737)のころで、以後、8世(?―1785)が江戸で最初の回り舞台や『金閣寺(きんかくじ)』の大ぜりをつくり、11世(1781―1841)が3世尾上菊五郎(おのえきくごろう)と提携して怪談狂言の仕掛物を発明したことなどによって、歌舞伎の大道具は大いに発達、長谷川の名も広く知られるようになった。14世(1847―1929)は11世の孫で明治時代に名人とうたわれ、13世の次男である16世(1889―1964。本名は源次郎)は東京歌舞伎座の大道具を担当し、1949年(昭和24)長谷川大道具株式会社を設立した。17世はその子信次郎(1924―2022)が相続し、1983年に社名を歌舞伎座舞台株式会社と変更、新旧の舞台づくりに活躍した。

[松井俊諭]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長谷川勘兵衛」の意味・わかりやすい解説

長谷川勘兵衛
はせがわかんべえ

歌舞伎大道具師。日本橋の宮大工であった1世は,江戸の歌舞伎の各座の大道具を専門として明暦 (1655~58) の頃から活躍,その後代々これを専業とする。8世は最初の回り舞台を制作。 11,12,14世は舞台機構の改良,仕掛物の工夫に手腕を発揮し,戸板返し,ちょうちん抜け,宙乗りなどを生み出した。 16世は 1951年長谷川大道具株式会社を設立。 17世は 65年,歌舞伎座舞台株式会社取締役となった (→大道具方 ) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷川勘兵衛」の解説

長谷川勘兵衛(14代) はせがわ-かんべえ

1847-1929 明治-大正時代の歌舞伎大道具方。
弘化(こうか)4年生まれ。11代長谷川勘兵衛の孫。幼友達の5代尾上(おのえ)菊五郎の「チャリネの曲馬」「スペンサーの風船乗り」などの仕掛けを工夫した。また似顔絵を得意とし,「歌舞伎十八番」が知られる。昭和4年10月1日死去。83歳。江戸出身。画名は忠清。

長谷川勘兵衛(17代) はせがわ-かんべえ

1924- 昭和-平成時代の歌舞伎大道具方。
大正13年1月28日生まれ。16代長谷川勘兵衛の次男。昭和15年ごろ大道具の仕事にはいり,39年長谷川大道具代表取締役。40年17代を襲名し,58年歌舞伎座舞台と社名を変更した。国立文楽劇場の大道具の監督もつとめた。東京出身。日大卒。本名は信次郎。

長谷川勘兵衛(8代) はせがわ-かんべえ

1723/25-1785 江戸時代中期の歌舞伎大道具方。
享保(きょうほう)8/10年生まれ。大道具と小道具の区別を明確化する。宝暦12年(1762)市村座に江戸で最初の回り舞台を完成,また大ゼリ・二重舞台・書割(かきわり)幕などを創案した。天明5年4月12日死去。61/63歳。

長谷川勘兵衛(16代) はせがわ-かんべえ

1889-1964 大正-昭和時代の歌舞伎大道具方。
明治22年3月8日生まれ。14代長谷川勘兵衛の弟金太郎の養子。東京歌舞伎座の大道具を担当。昭和26年長谷川大道具株式会社を設立。組織の近代化,大道具の機械化をはかった。昭和39年1月16日死去。74歳。東京出身。本名は源次郎。

長谷川勘兵衛(11代) はせがわ-かんべえ

1781-1841 江戸時代後期の歌舞伎大道具方。
天明元年生まれ。舞台装置,とくに道具仕掛けや怪談物の工夫にすぐれる。3代尾上(おのえ)菊五郎のために「四谷怪談」の戸板返し,提灯(ちょうちん)抜けなどの仕掛けを考案した。天保(てんぽう)12年8月8日死去。61歳。

長谷川勘兵衛(初代) はせがわ-かんべえ

?-1659 江戸時代前期の歌舞伎大道具方。
江戸日本橋の宮大工の子。明暦のころ中村座などで書割(かきわり)や出道具をつくった。江戸の専門道具方の祖といわれる。以後この名は現代まで17代をかぞえる。万治(まんじ)2年3月4日死去。本姓は上谷。幼名は清五郎。

長谷川勘兵衛(13代) はせがわ-かんべえ

1826-1890 江戸後期-明治時代の歌舞伎大道具方。
文政9年生まれ。道具方長谷川家の分家の子で,12代勘兵衛の養子となる。「義経千本桜」の御殿から奥庭にかわる土間の引割(ひきわり)などの工夫にすぐれた。明治23年2月9日死去。65歳。

長谷川勘兵衛(12代) はせがわ-かんべえ

1815-1861 江戸時代後期の歌舞伎大道具方。
文化12年生まれ。11代長谷川勘兵衛の9男。宙乗り,がんどう返し(どんでん返し)などの仕掛けを考案。また劇場建築にもたずさわった。文久元年9月5日死去。47歳。江戸出身。

長谷川勘兵衛(6代) はせがわ-かんべえ

?-1737 江戸時代中期の歌舞伎大道具方。
狂言作者中村伝七とともに引き道具・セリ出しなどを工夫・改良したという。6代のころ大道具の仕事を独占的なものとした。元文2年10月29日死去。

長谷川勘兵衛(2代) はせがわ-かんべえ

?-1669 江戸時代前期の歌舞伎大道具方。
初代長谷川勘兵衛の子。市村座の道具方。黒の引き幕を考案し,柴垣(しばがき)や立ち木をはじめてもちいた。寛文9年3月18日死去。江戸出身。

長谷川勘兵衛(4代) はせがわ-かんべえ

?-1700 江戸時代前期の歌舞伎大道具方。
擬音を工夫したという。元禄(げんろく)13年3月1日死去。

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367日誕生日大事典 「長谷川勘兵衛」の解説

長谷川 勘兵衛(16代目) (はせがわ かんべえ)

生年月日:1889年3月8日
大正時代;昭和時代の歌舞伎大道具方
1964年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長谷川勘兵衛の言及

【劇場】より

…文化・文政期(19世紀前半)の文化の爛熟期は,前代の劇場の様式をそのままうけついだが,4世鶴屋南北の怪談物や仕掛物が一般にうけいれられる風潮もあった。11世長谷川勘兵衛ら大道具師の活躍が,劇場建築や舞台装置を写実的なものにしていく上に果たした功績も見のがせない。1841年(天保12)の堺町,葺屋町一帯の火災で,中村座・市村座や操座が焼失した機会に,おりから天保の改革を断行しつつあった幕府は,劇場を焼跡に再築することを認めず〈芝居取払〉を決めて,浅草猿若町へ市村座・中村座・河原崎座の歌舞伎劇場と,操り人形の薩摩座・結城座の移転を命じた。…

【回り舞台】より

…この機構は,江戸の道具方老住屋重二郎によって1793年(寛政5)4月江戸中村座に移され,以後江戸三座でも行われるようになった。3世尾上菊五郎が《五十三駅》を上演したときに大道具の11世長谷川勘兵衛が,盆の中にもう一つ別の盆を切ることを考案し,内盆,外盆を反対の方向に回転させることもできる工夫をしたとされる(《戯曲年表》)。これを〈二重回し〉とも〈蛇の目回し〉ともいう。…

【大道具】より

… 初期の歌舞伎は能舞台をそのまま模したような舞台で,演目も単純な一幕物ばかりだったから,大道具も簡単であったが,脚本が進歩して多幕物が発達し,演出も複雑になるにともなって,それまで舞台装置に類するものを担当していた大工職が独立し,専門の大道具師が生まれた。大道具師の祖といわれるのは江戸日本橋の宮大工の子,初世長谷川勘兵衛(?‐1659)で,その後世襲した代々の勘兵衛によって技術は急速に進歩して現在に及んでいる。 歌舞伎の大道具は,基本的には〈二重(にじゆう)〉と〈張物(はりもの)〉の二つで構成される。…

※「長谷川勘兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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