長谷川天渓(読み)ハセガワテンケイ

デジタル大辞泉 「長谷川天渓」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐てんけい〔はせがは‐〕【長谷川天渓】

[1876~1940]評論家英文学者。新潟の生まれ。本名、誠也。雑誌太陽」の編集従事自然主義論客として脚光を浴びた。評論「自然主義」など。

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精選版 日本国語大辞典 「長谷川天渓」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐てんけい【長谷川天渓】

  1. 批評家、英文学者。本名誠也。新潟県出身。上京し、ケーベルの知遇を得、文学を志す。東京専門学校卒業後「太陽」の編集に従い、特に自然主義を論じて活躍。のち学究的立場に至り英文学の研究に従った。著「自然主義」「文芸思潮論」など。明治九~昭和一五年(一八七六‐一九四〇

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20世紀日本人名事典 「長谷川天渓」の解説

長谷川 天渓
ハセガワ テンケイ

明治〜昭和期の文芸評論家,英文学者



生年
明治9年11月26日(1876年)

没年
昭和15(1940)年8月30日

出生地
新潟県刈羽郡高浜

本名
長谷川 誠也(ハセガワ セイヤ)

学歴〔年〕
東京専門学校(現・早稲田大学)文科〔明治30年〕卒

経歴
博文館に勤務し「太陽」「文章世界」「譚海」などを編集。かたわらニーチェの論文を翻訳紹介し、明治34年「文壇の個人主義」を発表。次いで「現文壇の欠点」「科究的精神の欠乏」などを発表し、38年文芸評論集「文芸観」を刊行。39年「幻滅時代の芸術」、41年「現実暴露悲哀」などを発表し自然主義文学論を展開、41年第二評論集「自然主義」を刊行。43年「万年筆」を刊行し、その年博文館から派遣されて出版事業研究のためイギリス留学し、大正元年帰国、同社の幹部となって評論壇から遠ざかる。帰国後早大英文科の講師を兼ねたこともある。昭和期に入ってからはフロイトに関心を抱き、「文芸と心理分析」「遠近精神分析観」などを刊行し、精神分析の啓蒙的役割を果たした。また国語国字問題の研究でも知られる。

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改訂新版 世界大百科事典 「長谷川天渓」の意味・わかりやすい解説

長谷川天渓 (はせがわてんけい)
生没年:1876-1940(明治9-昭和15)

評論家。本名は誠也。新潟県生れ。1897年東京専門学校(現,早稲田大学)卒業と同時に博文館に入社,《太陽》の記者となる。はじめはひろく科学・宗教・哲学に興味を示したが,高山樗牛の《美的生活を論ず》(1901)への反論などを契機として文学批評に進む。《幻滅時代の芸術》(1906)で自然主義文学の積極的な推進論者となり,以後〈現実暴露の悲哀〉〈無解決と解決〉(1908)など,この文学運動のキャッチフレーズづくりをつとめた。文字どおり現実を暴露し破壊することをためらわずに訴えつづけたが,直線的な論理がやや緻密さを欠き,反自然主義陣営の批判を浴びた。1910年からのイギリス留学で評論の筆を収め,後年は早大で英文学を講じた。《文芸観》(1905),《自然主義》(1908),《万年筆》(1910)などがある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川天渓」の意味・わかりやすい解説

長谷川天渓
はせがわてんけい
(1876―1940)

評論家、英文学者。本名誠也(せいや)。新潟県生まれ。東京専門学校(現早稲田(わせだ)大学)文科卒業。博文館に入り『太陽』の編集に従事、かたわら文芸評論の筆をとり、科学的方法を文学に持ち込むべきことを説くなど清新な論を展開し、『幻滅時代の芸術』(1906)、『現実暴露の悲哀』(1908)などを次々に発表し、日露戦争後におこった自然主義を推進させる役目を果たした。しかし、1910年(明治43)から12年にかけてイギリスに留学、帰国後は評論活動から出版事業経営の仕事にしだいに転じ、同時に近代英文学、精神分析の研究に力を入れた。著書に『自然主義』(1908)、『文芸と心理分析』(1930)など。

[畑 実]

『『明治文学全集43 長谷川天渓他集』(1967・筑摩書房)』

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百科事典マイペディア 「長谷川天渓」の意味・わかりやすい解説

長谷川天渓【はせがわてんけい】

評論家。本名誠也。新潟県生れ。東京専門学校(現早稲田大学)卒。坪内逍遥に師事。博文館に入社,雑誌《太陽》を編集して文明批評の筆をとり,自然主義文学を鼓吹した。1910年英国に留学,以後評論の筆はおさめ,その後は早大で英文学を講じた。《文芸観》《自然主義》《文芸と心理分析》その他の著がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長谷川天渓」の意味・わかりやすい解説

長谷川天渓
はせがわてんけい

[生]1876.11.26. 新潟,高浜
[没]1940.8.30. 東京
評論家。本名,誠也。 1897年東京専門学校英文科卒業とともに博文館に入社,高山樗牛の『美的生活を論ず』に反発して『不自然は果して美か』 (1902) ,『解決なき創作物』 (03) ,『文学の試験的方面』 (04) を発表し,文学の研究,創作に科学的方法論を導入して自然主義勃興への橋渡し的役割を果した。のち『文章世界』の編集にあたり,早稲田大学で英文学を講じた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷川天渓」の解説

長谷川天渓 はせがわ-てんけい

1876-1940 明治-昭和時代前期の評論家。
明治9年11月26日生まれ。博文館で「太陽」を編集し,同誌に「幻滅時代の芸術」「現実暴露の悲哀」などを発表。明治43年イギリスに留学,帰国後は早大で英文学を講じた。昭和15年8月30日死去。65歳。新潟県出身。東京専門学校(現早大)卒。本名は誠也。著作に「文芸観」「自然主義」など。
【格言など】吾れ等の深刻に感ずるものは幻滅の悲哀なり,現実暴露の苦痛なり(「現実暴露の悲哀」)

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367日誕生日大事典 「長谷川天渓」の解説

長谷川 天渓 (はせがわ てんけい)

生年月日:1876年11月26日
明治時代-昭和時代の文芸評論家;英文学者
1940年没

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世界大百科事典(旧版)内の長谷川天渓の言及

【自然主義】より

…《破戒》は主題と方法の清新さによって,《蒲団》は実生活の愛欲の赤裸々な告白として,いずれも文壇に大きな衝撃を与えた。また,《破戒》をいち早く西欧自然主義の命脈を伝えた作と評価した島村抱月をはじめ,長谷川天渓,片上伸(天弦)らの評論活動による理論的バックアップも有力だった。自然主義はやがて《早稲田文学》《文章世界》《読売新聞》などを有力な拠点とする一種の文学運動にまで成長し,1910年前後に最盛期を迎える。…

※「長谷川天渓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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