飯田郷(読み)はんだごう

日本歴史地名大系 「飯田郷」の解説

飯田郷
はんだごう

郡東部において平安時代後半に成立した別名で、以後中世を通じて存在した。玖珠川右岸とその支流松木まつぎ川および野上のがみ川の両岸地域に比定され、飯田高原を含む。長寛三年(一一六五)四月二六日の清原兼次譲状案(丹波野上文書)に「飯田郷之郡司」とみえる。豊後清原姓森氏系譜(森米男文書)によれば兼次の父通次が飯田郷を本領の一つとし、のちに豊後清原系野上氏の本領となった。兼次譲状案によれば郷内のつつみ村を五男道直に、なか村を女子に譲っている。そのほか郷内に野上村(四郎丸名)・飯田名(松行名とも)美良津みらつ(近松名)恵良えら(末藤名)だん(犬丸名)松藤まつふじ(相藤名は誤記か)書曲かいまげ村などがあり、野上村は正嘉元年(一二五七)閏三月二四日の関東御教書(野上文書)に野上村地頭職とみえる。豊後国弘安田代注進状には飯田郷七〇町とあり、本庄新庄に分れ、領家は城興じようこう(現京都市南区)と奈良興福寺一乗いちじよう院。飯田本名(新庄)・美良津名(新庄)・恵良村・檀村・野上村(本庄)松藤(新庄)・書曲村(新庄)の反別と地頭職が記される。嘉暦四年(一三二九)八月の帆足通勝重目安状案(醍醐寺文書)では飯田郷の本家を一乗院、領家を西南院大納言僧都としている。

飯田郷本名の飯田氏居館は松木川中流域左岸、松木の飯田の丘陵地にあった。南北朝期、当郷などの村々地頭職は田村貞広に与えられるが、貞広は観応元年(一三五〇)一〇月二六日には嫡子徳増丸(氏能)に譲っている(「田原貞広譲状」大友家文書録)。延文五年(一三六〇)八月二八日足利義詮は大友氏時に命じて飯田郷内の松行名などに対する帆足道種以下の濫妨を停め、下地を氏能に交付するよう命じている(「足利義詮御判御教書案」入江文書)。康暦元年(一三七九)一二月二四日には氏能より嫡子徳一丸(親貞)に当郷などの地頭職を譲与することが認められている(「足利義満袖判下文」同文書)。室町期の年月日未詳玖珠郡飯田郷名々田数注文(上田節蔵蔵野上文書)には飯田郷七〇町として六名の記載があり、前掲延文五年の御教書案にみえるもり岩室いわむろ(現玖珠町)などは含まれない。

〔松行名〕

現松木字飯田を中心に松木川の左岸と前辻まえつじ後辻うしろつじを含む地に比定され、豊後国弘安田代注進状にみえる「飯田本名 玖町五段 新庄」に相当すると考えられる。延慶三年(一三一〇)一二月二二日の鎮西北条政顕御教書(皇学館大学所蔵文書)によれば、飯田蓮性の訴えにより飯田郷松行名大豆田中坪屋敷をめぐる本所と御家人の争いで正元元年(一二五九)の関東下文、永仁五年(一二九七)の下知状の正文を持参するよう野上資直に命じている。

飯田郷
いいだごう

浜松市飯田町・下飯田町付近に比定される。かば御厨東方に属する。寛喜三年(一二三一)以前の源氏女申状(民経記寛喜三年三月記紙背文書)に「伊勢太神宮領遠江国蒲御厨□飯田郷内新開田」とみえる(→新貝村。同申状には「郷内鶴見・大(塚カ)」ともあり、当時鶴見つるみ大塚おおつかは当郷に含まれていたとみられる。明徳二年(一三九一)頃の蒲御厨年貢公事銭注文写(東大寺文書)によれば飯田郷の定麦一七石二斗余・定豆五三石二斗余、定役二九貫七四一文。同注文写では最大の年貢高であり、また地内の龍泉りゆうせん寺は蒲冠者を称した源範頼の屋敷跡と伝承されていることから、蒲御厨の中心的郷であったといえる。応永二九年(一四二二)閏一〇月一〇日の蒲御厨収納帳(同文書)には飯田郷として九回、飯田として二回の納入が記されている。

飯田郷
いいだごう

あら川とあい川の流域にあった中世郷。建武五年(一三三八)正月二八日の足利尊氏下文(長野内藤家文書)に「甲斐国飯田郷」とみえ、郷内武田源七跡が内藤左衛門四郎泰廉の後継者に勲功の賞として与えられた。内藤氏は安芸国高田たかだ妻保垣めほがき(現広島県向原町)などの地頭を相伝してきた一族で、泰廉は南北朝期には安芸国守護武田信武に従って戦っている。この時期に信武はあるいは北朝方として甲斐に入国していたのであろう。貞和二年(一三四六)一〇月二六日には、前年五月一四日の奉書、同月二〇日の施行状に従い、泰廉の後を継いだ子息内藤松王丸の代官伊原三郎五郎に飯田郷内武田源七跡が引渡された(「左衛門尉時実渡状」同文書)。文和二年(一三五三)五月九日には郷内五段の地が逸見豊前守信有から一蓮いちれん寺へ寄進された(貞治三年二月一五日「一蓮寺寺領目録」一蓮寺文書)

飯田郷
いいだごう

現益田市の飯田町・内田うちだ町・虫追むそう町地域に所在した長野ながの庄を構成する内部の所領単位。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案、同二年六月日の源義経下文案、建仁三年(一二〇三)一二月日の藤原兼季解状案(いずれも益田家文書、以下断らない限り同文書)にみえるが、確実な初見史料は貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文で、長野庄の一部として「いゝ田の郷 卅九丁四反小」とみえる。同年五月二五日の関東下知状によると、掃部助仲広が飯田郷地頭職をめぐって益田兼季との間に訴訟を起こしたが、仲広の非論が停止されている。益田氏による飯田郷支配は、源平争乱の恩賞として益田兼栄・兼高父子が獲得して以来と考えられる。嘉元二年(一三〇四)七月二七日、長野庄領家の地位にあった鎌倉幕府将軍久明親王が、長野庄内飯多・市原いちはら政所に対して、源茂国を代官に補任し、庄務を執行し恒例・臨時の御公事の沙汰をさせることを伝え(「将軍奥判下文」保坂潤治氏所蔵手鑑)、連署北条時村も同日に同様の命令を出している(「北条時村下文案」古証文)

飯田郷
いいだごう

風越ふうえつ(一五三五メートル)の山麓に広がり、南はまつ川、北はその支流野底のそこ川によって浸食された台地上に立地する。

古代は「和名抄」所載の麻続おみ郷に属し、やがて郡戸ごうど庄飯田郷となった。「飯田」の地名の文献上の初見は元応元年(一三一九)、僧宗昭覚如が三河を経て飯田の僧寂円を訪ねた「常楽台主老衲一期記」の記事である。諏訪御符礼之古書の嘉暦三年(一三二八)の条・観応元年(一三五〇)の阿曾沼秀親所領注文(小山文書)によれば、飯田郷の鎌倉時代から室町時代初期にかけての地頭は阿曾沼氏であったことが知られる。享徳元年(一四五二)・長禄二年(一四五八)の諏訪御符礼之古書によれば、当郷は坂西康維が地頭として上社御射山祭の頭役を勤仕している。

飯田郷
いいだごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「和名抄」東急本では讃岐国香川郡飯田郷に「育多」と訓を付す。「日本地理志料」は「伊比多」と訓を付し、大炊寮に舂米を進めたゆえの名とする。

飯田郷
いいだごう

「和名抄」高山寺本には「育太」、東急本には「育多」と訓を付す。中世には公領の飯田郷がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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