阿蘇氏(読み)あそうじ

改訂新版 世界大百科事典 「阿蘇氏」の意味・わかりやすい解説

阿蘇氏 (あそうじ)

肥後阿蘇神社の大宮司家。小国家の首長,国造,郡司の伝統を有し,出雲の千家,宇佐の到津(いとうづ)氏などとともに古代末より系譜の明らかな地方名社の社家。宇治氏を称し,中世には武家として活躍。謡曲《高砂》にも登場。阿蘇谷の手野古墳群は同氏歴代の墳墓であるとの伝承がある。文献では1142年(康治1)大宮司宇治惟宣が年貢済物の確認を求めているのが初見。80年(治承4)大宮司となった惟泰は領家源定房の荘官の地位を兼務,翌年菊池隆直と反平氏の挙兵を共にした。その子惟次のころには,それまで氏人の中から選ばれ,任期制の形式を残していた大宮司の地位は惣領に独占世襲されるようになり,開発した南郷谷の私領諸村は預所・地頭の地位を得た鎌倉幕府執権北条宗家の安堵を受けるに至った。元弘の乱では菊池氏とともに日向鞍岡で北条方と戦い,戦功として建武政府から阿蘇郡の本社領甲佐・健軍・郡浦の末社支配権が,本家職・領家職を含めて与えられ,大宮司の支配権は強化された。南北朝内乱初期,多々良浜足利尊氏を迎えて戦った大宮司惟直が討死すると,父惟時が大宮司に復活。一族惟澄と北朝方大宮司を破るが,その後惟時の態度は不鮮明。惟時の死後は惟澄が大宮司となるが,惟澄の死後は北朝方の惟村と南朝方の惟武がそれぞれ大宮司を称し,惟村系は益城郡,惟武系は阿蘇郡を支配して対立した。1451年(宝徳3)惟村系の惟忠は惟武系の惟歳を養子とすることで阿蘇・益城の統一を果たし,本拠矢部は阿蘇氏政治の中心となった。この勢力を背景に惟長は菊池氏を継ぎ,惟豊は従二位となった。矢部の浜館址は近年発掘され貴重な出土品が発見された。戦国末期幼主惟光の代に島津氏の攻撃を受けて衰退し,豊臣秀吉からはわずかな安堵しか得られず,梅北の乱で疑われて殺された。江戸時代には弟惟善が阿蘇谷一の宮の現社地に移り,代々社家として存続。明治に華族に列せられ男爵となった。
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百科事典マイペディア 「阿蘇氏」の意味・わかりやすい解説

阿蘇氏【あそうじ】

肥後(ひご)国阿蘇神社の大宮司家。古代阿蘇谷の開発豪族で阿蘇国造(くにのみやつこ)の伝統を有し,中世に在地領主化。惣領制的武士団を形成し,惣領家は宇治氏を称する。南北朝時代に一族が両統に分裂して抗争。その後次第に衰微し,戦国期には大友氏島津氏に降った。
→関連項目肥後一揆

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿蘇氏」の意味・わかりやすい解説

阿蘇氏
あそうじ

肥後(熊本県)阿蘇地方の開発豪族で、火山神と開発神の結合した祖神健磐竜命(たけいわたつのみこと)を祀(まつ)る阿蘇神社の神主家。大化前代には国造(くにのみやつこ)で阿蘇君(あそのきみ)と称す。平安時代には神主兼阿蘇郡司として祭政一致の領主となり、12世紀初頭には大宮司と称するようになった。以来、宗家は宇治姓を称し、多くの庶家を擁して菊池氏と並ぶ大武士団を形成した。南北朝期には、惟澄(これずみ)、惟武(これたけ)らの南朝方、惟村(これむら)らの北朝方に分裂し、室町時代まで対立が続いた。1451年(宝徳3)惟忠(これただ)によって統一され、益城(ましき)郡浜(はま)の館(やかた)にあって大名権力の確立を意図したが果たせず、1585年(天正13)には島津氏に敗れ、さらに豊臣(とよとみ)秀吉によって惟光(これみつ)が殺され武家大宮司の時代は終わり、以後はもっぱら祭祀(さいし)家として存続、明治に至り惟敦(これあつ)は男爵に叙せられた。

[工藤敬一]

『杉本尚雄著『中世の神社と社領の研究』(1959・吉川弘文館)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿蘇氏」の意味・わかりやすい解説

阿蘇氏
あそうじ

阿蘇市にある肥後国一の宮阿蘇神社の大宮司家。本姓は宇治氏であるが,阿蘇の姓を賜った。平安時代初期の友成以後,代々大宮司を務める。南北朝内乱期には一族が南北両朝に分かれて戦ったが,主流は南朝方に属し,菊池氏とともに九州宮方の中心となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「阿蘇氏」の解説

阿蘇氏
あそし

肥後国(熊本県)阿蘇郡の豪族
阿蘇国造 (くにのみやつこ) の子孫。阿蘇神社を創建し,10世紀初頭大宮司 (だいぐうじ) となり以後世襲。南北朝時代,足利尊氏が九州に西走したとき,阿蘇惟時 (これとき) は惟澄など一族を率い,南朝に属して菊池氏に協力。惟澄は日向にまで勢力を伸ばした。戦国期に,大友氏に圧倒されて衰退。

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世界大百科事典(旧版)内の阿蘇氏の言及

【征西将軍】より

…親王は五条頼元以下少数の従者を率いて42年(興国3∥康永1)5月1日薩摩国に上陸し,征西将軍宮と称された。親王は薩摩国谷山郡(現,鹿児島市)の谷山城を本拠として谷山御所と称し,肥後国の菊池氏,阿蘇氏をはじめ南朝支持勢力の組織化に努めた。親王の先発として肥後に入っていた中院義定は菊池氏の軍勢を率いて筑後国に進出し,大宰府攻略を意図したが,九州管領(九州探題)一色道猷(範氏)の反撃によって失敗し,後退した。…

【肥後国】より

…菊池氏一族が蟠踞したところには,多く天満宮が勧請され,安楽寺領荘園(玉名荘,赤星荘,田口荘,富納荘,田島荘など)が成立したことや,中世の菊池氏が一貫して大宰府,博多への強い指向性をもつのも,このような菊池氏の出自に由来するであろう。菊池氏のほかに,古代国造の系譜をひき開発祖先神と火山神の統一である阿蘇神をまつる阿蘇氏も,12世紀の初めまでに阿蘇南郷谷を拠点に武士団を形成し,大宮司と称するに至った。南部では益城郡にあって源姓を称する木原氏が有力で,12世紀の半ばには〈国中の乱行ひとへに広実(木原)一人にあり〉といわれるような,激しい反国衙行動を展開する。…

※「阿蘇氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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