難波の堀江(読み)なにわのほりえ

精選版 日本国語大辞典 「難波の堀江」の意味・読み・例文・類語

なにわ【難波】 の 堀江(ほりえ)

上代、今の大阪市上町台地の北側にあって大阪湾に通じていた堀。現在、北区と中央区との間を流れる大川天満川)の流路にあたる。当時、淀川河口の付近からこの地の東方にかけて大きな潟湖があり、仁徳天皇一一年、その氾濫を防ぐために高津宮の北側を開削し、大和川(旧流路)とともに、その潟湖を大阪湾に直通させたと伝えられる。難波江。なにわほりえ。
※書紀(720)欽明一三年一〇月(北野本訓)「有司(つかさつかさ)乃ち仏像を以て難波の堀江(ホリエ)に流棄(なかしす)つ」

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日本歴史地名大系 「難波の堀江」の解説

難波の堀江
なにわのほりえ

難波の堀江は、欽明天皇一三年一〇月に百済の聖明王がわが朝廷に献じた仏像を、崇仏廃仏論争のすえ物部尾輿らの奏によって「難波の堀江に流棄」(日本書紀)したという説話などで有名である。いまも西区に北堀江きたほりえ南堀江の町名があるが、それによって古代の堀江の所在を推すわけにはいかない。まず堀江についての主要な史料をあげる。

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堀江の場所はこれらの史料によって種々論議されている。おもな説は(一)上町うえまち台地の北麓を東から西に流れる天満てんま(現大川)のこと、(二)長堀ながほり川、(三)道頓堀どうとんぼり川の前身堀川、(四)上町台地を現天王寺区上本うえほん町二丁目と三丁目の間で横断する空堀通の四説である。このうち有力なのは(一)の天満川説で、早く「帝王編年記」仁徳天皇一一年条に「今山崎河通海、是堀江也」とあるのも天満川説と考えられるが、「大日本地名辞書」、「帝都(喜田貞吉)も同説である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報