中国,前漢武帝時代の将軍。武帝の衛皇后および将軍衛青の甥で,皇后の縁故により18歳で侍中となる。前123年に衛青の匈奴征討に従軍して勇将ぶりを発揮し,前121年には驃騎将軍となる。この年,甘粛方面の匈奴に壊滅的打撃を与えて西部匈奴の渾邪(こんや)王を降服させ,前119年には衛青と出撃して匈奴を漠北に一掃する手柄をたてたが,その2年後に24歳で病死した。
陝西省興平県の武帝の陵墓茂陵(もりよう)の東方およそ1kmのところにある。武帝は,匈奴征討で輝かしい武勲をたてた驃騎将軍霍去病の死を悲しみ,当時寿陵として造営中の茂陵に陪冢(ばいちよう)をつくって葬ったが,その形状は彼の武功を顕彰するために祁連山(きれんざん)にかたどったといわれている。茂陵の陪冢にはほかに衛皇后,衛青,霍光墓などがあるが,霍去病墓だけにみられる特徴としては,花コウ岩の大型石彫のあることである。中でも有名なのは,上向きに倒れた匈奴と思われる胡人を,脚下に踏んで直立した馬の石彫で,匈奴を撃破した将軍の墓前を飾るにふさわしい造形を示している。そのほかには象,牛,馬,猪,羊,亀,魚や怪物などがあり,全部で16件が残っている。石人石獣のさきがけをなすもので,漢代の制作であることは疑いなく,ほかに比較すべき類例をみない,特異な石刻芸術として注目される。
執筆者:永田 英正
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中国、前漢の武帝期に匈奴(きょうど)討伐で著名な武人。衛(えい)皇后の甥(おい)にあたり、戦術に天賦の素質を発揮した。六度出兵して斬首(ざんしゅ)・捕虜11万余。渾邪(こんや)王を降(くだ)し、河西・酒泉を置いて辺境地帯を鎮めた。紀元前119年、衛青(えいせい)とともに匈奴の根拠地を攻め、外モンゴルの狼居胥山(ろうきょしょさん)に至った。その功績により、衛青と並称されたが、24歳の若さで夭折(ようせつ)した。彼は皇帝に忠誠で、戦術においては伝統的な孫子・呉子の兵法にこだわることなく、速度と距離に重点を置く騎兵を主力に採用した。先輩李広(りこう)らの防御戦術から脱皮したので、初めて匈奴を抑えることができた。『史記』の叙述は去病にやや冷淡であるが、それは司馬遷(しばせん)の外征に対する批判的態度を示すものである。墓は武帝の茂陵(もりょう)の近傍に、衛青のそれと隣り合わせにある。現在はそこに文物管理所が設けられていて、茂陵周辺の漢代を中心にした出土品が数多く展示されている。とりわけ胡人(こじん)を踏む石馬は有名である。
[好並隆司]
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前140頃~前117
前漢武帝のときの武将。叔父衛青とともにしばしば匈奴(きょうど)を討ち,特に甘粛方面の平定,モンゴル高原の根拠地の覆滅に大功を立てた。24歳で病死。その墓は武帝陵の側につくられ現存する。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…この国力を背景に武帝は積極的に領土を広げ,宿願の匈奴征討を果たし,西域との通交も開かれた。この武帝の覇業を示すのは前漢諸帝陵中最大の茂陵とその陪冢(ばいちよう)の霍去病(かくきよへい)の墓である。墳丘全体を祁連(きれん)山に見たて,そこに巨石の丸彫による牛・馬その他の彫像を配する。…
…4000m以上では氷河が発達し河西回廊の水源となる。山ろくにはチベット族,河西回鶻(かいこつ)の子孫ユーグ(裕固)族などが居住,焉支(えんし)山一帯には漢の霍去病(かくきよへい)によって官営養馬場が開かれて以来,軍馬飼育場が発展している。【駒井 正一】。…
※「霍去病」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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