日本ではゴローニンの名で知られたロシアの海軍士官。晩年は中将にまで昇進し,主計総監としてロシア海軍力の増強に尽くした。1807年三檣船ディアナ号の艦長として極東に向かい,11年南千島海域を測量中,国後(くなしり)島で部下たちとともに日本側の捕虜となる。1806-07年に一部のロシア軍人がサハリン(樺太),択捉(えとろふ)島などで日本の番所を襲撃する事件があり,幕府は蝦夷地の防備を固めていたのである。ディアナ号の副艦長リコルドや彼が人質とした箱館の商人高田屋嘉兵衛の尽力もあって,13年に釈放される。この間,足立左内,馬場佐十郎,間宮林蔵らにロシア語やロシアの国情を伝え,帰国後は,日本人のもとでの抑留生活の詳細な記録と卓抜な観察からなる《日本幽囚記》(1816)を著す。この本は短期間に各国語に翻訳され,ヨーロッパの日本認識に貢献した。日本でも馬場佐十郎らが《遭厄日本紀事》と題して,早くも文政年間(1818-30)にオランダ語訳から重訳した。
執筆者:中村 喜和
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1776.4.8~1831.6.29
ロシアの海軍士官。海軍士官学校卒業後,イギリス留学。帰国後,ディアナ号艦長として世界周航航海を命じられ,1811年(文化8)択捉(えとろふ)島・国後(くなしり)島を測量中に,松前奉行所の役人に士官ら7人とともに捕らえられ,松前・箱館で2年3カ月余の監禁生活を送った。1806・07年のロシアの海軍士官による樺太・択捉襲撃事件(文化露寇事件)への報復であった。ディアナ号副艦長リコルドは救出のため,翌年高田屋嘉兵衛と水主4人を捕らえてカムチャツカに連行し,嘉兵衛の沈着な判断に助けられて,13年釈放が実現した。この経験を綴った「日本幽囚記」(1816)がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…翌99年東蝦夷地とともに千島を幕府直轄領とし,1800年高田屋嘉兵衛に命じて択捉島に漁場を開かせるとともに,同島に郷村制を実施してアイヌの同化策を進めた。 同地は21年(文政4)再度松前藩領となったが,この間,1807年(文化4)フボストフNikolai KhvostovやダビドフGavriil I.Davydovらの択捉島攻撃,11年千島海域の測量に来たゴロブニンの捕縛と翌年のリコルドPyotr I.Rikordによる高田屋嘉兵衛の連行など,千島を介して日本と交易関係を結ぼうとするロシアとの間にしばしば紛争が生じた。55年2月7日(安政1年12月21日)の日露和親条約によって両国の国境は,択捉・ウルップ両島間の水道に定められ,樺太・千島交換条約により千島全島が日本領となった。…
…古典主義の荘重さと軽妙な風刺の要素を結合させた独特の華麗なスタイルが確立するのは,《メシチェルスキー公の死をいたみて》(1779)や上述の《フェリーツァによせて》,《神》(1784),《イズマイル占領によせて》(1791),《高官》(1794)などの頌詩においてである。上記の最後の三つの作品は文化年間(1804‐18)に海軍士官ゴロブニンによって日本に紹介され,馬場佐十郎によって部分的にではあるが漢詩風に翻訳された。1790年代以後は抒情的な作品が多くなり,《アナクレオン風歌謡集》(1804)に収められた作品には,古代ギリシアの詩人への深い傾倒がみられる。…
…同様の学校は53年にイルクーツクにも設けられた。19世紀前半には,日本との通商関係を求めた航海者I.F.クルーゼンシテルンの《ナジェジダ号とネバ号による世界周航の旅》(1809‐12),V.M.ゴロブニンの《日本幽囚記》(1816)などロシア側から見た日本研究書が現れた。さらに,日露和親条約(1855)の交渉のために日本を訪れた提督E.V.プチャーチンの秘書官を務めた作家I.A.ゴンチャロフの航海記《フリゲート艦パルラダ号》(1858)も重要文献としてヨーロッパ諸語に翻訳された。…
※「ゴロブニン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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