改訂新版 世界大百科事典 「青年トルコ」の意味・わかりやすい解説
青年トルコ (せいねんトルコ)
Genç Türkler
オスマン帝国末期,スルタン,アブデュルハミト2世の専制政治に反対した改革運動。1889年イスタンブールの軍医学校学生イブラヒム・テモIbrahim Temo(1865-1945)の結成した〈統一と進歩委員会İttihad ve Terakki Cemiyeti〉を中心勢力とし,1876年に公布されたミドハト憲法の復活を目的とした。これは,西欧近代文明を導入しオスマン帝国の改革を図ろうとしたナムク・ケマルらの新オスマン人協会の活動をうけつぐものであった。97年大弾圧によりオスマン帝国内の活動を停止,パリのアフメト・ルザAhmet Rıza(1859-1930)らの海外活動が中心となり,トルコ人のほか,アラブ,ギリシア,クルド,アルメニア,アルバニアなどオスマン帝国下の諸民族の代表が参加するが,1902年,オスマン人としての立場を強調する中央集権派と諸民族の運動を尊重する地方分権派に分裂した。06年には,〈祖国と自由〉委員会を組織していたケマル・アタチュルクも加わり,テッサロニキに〈統一と進歩委員会〉本部を成立させた。08年ニヤージNiyazi(1873-1912)らの若手将校の武装蜂起を契機として,憲法の復活を一方的に宣言,スルタンはこれを追認し第2次立憲体制期に入った。中央集権派が国会議員を独占したが,09年イスタンブールでの兵士の反乱(3月31日事件)により一時勢力を後退させ,反乱鎮圧により勢力を増大,13年クーデタにより政権を握り,エンウェル・パシャ,タラート・パシャTalāt Paşa(1874-1921),ジェマル・パシャCemal Paşa(1873-1922)の三頭政治を行った。革命政権は,オスマン帝国としての立場を強調するオスマン主義から,しだいにトゥラン主義の影響をうけてトルコ・ナショナリズムの立場を強め,これは非トルコ系諸民族の抑圧につながった。
第1次世界大戦にドイツ側に立って参戦を指導,敗戦後には,勢力は国外逃亡などで消滅し,オスマン帝国の改革という課題は,ケマル・アタチュルクの指導するトルコ革命にひきつがれることになる。
執筆者:設楽 国広
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報