靖国神社問題(読み)やすくにじんじゃもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

靖国神社問題
やすくにじんじゃもんだい

1945年(昭和20)12月にGHQ(連合国最高司令官総司令部)が発した神道(しんとう)指令によって、第二次世界大戦前の国家神道は解体され、靖国神社も一宗教法人となった。しかし、日本遺族会が56年の全国戦没者遺族大会で靖国神社の国家護持を決議すると、遺族団体や神社関係者などを中心にして靖国神社の国家護持運動が活発化する。こうしたなかで、自由民主党(自民党)は、69年に靖国神社の国営化を目的にした靖国神社法案を国会に提出し、その後も提出を繰り返したが、同法案は74年までに5回廃案となった。廃案の背景には、信教の自由を犯し、軍国主義の復活につながるという、野党やキリスト教など宗教団体の強い反対があったが、日本国憲法第20条第3項の「政教分離」規定が国営化実現の大きな障害となっているという事情もあった。
 その後、神社の国営化を求める諸団体は、「終戦記念日」の8月15日に首相が公式参拝を行うことを求めるようになり、公式参拝の実現を通じて、靖国神社を国家的追悼施設として認知させようとした。これを受けて、1982年に発足した中曽根康弘(やすひろ)内閣は、公式参拝に熱意を示し、私的諮問機関である「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」を設置して、この報告に基づくかたちで、85年8月15日に靖国神社への公式参拝を行った。このときの公式参拝は、「政教分離」規定を意識して宗教色を薄めるかたちをとり、神殿での拝礼は略式となった。
 しかし、首相の公式参拝は、日本が行った侵略戦争を正当化する行為として、アジア諸国からの激しい反発を招いた。とくに、靖国神社には、東京裁判(極東国際軍事裁判)で有罪の判決をうけた東条英機(ひでき)ら14人のA級戦犯が、1978年に「昭和殉難者」として合祀(ごうし)されていたため、中国・韓国両国政府からの批判には厳しいものがあり、日本政府も対応に苦慮して、翌1986年8月14日には、内閣官房長官後藤田正晴(ごとうだまさはる)が、首相の公式参拝を見送るとの談話を発表した。それ以後、終戦記念日の首相の公式参拝は途絶することになる。2001年(平成13)首相に就任した小泉純一郎は終戦記念日の参拝に強い意欲を示したが、中国や韓国からの反発を考慮し、同年8月13日、終戦記念日を避ける形での参拝を行った。また、参拝の公私の区別については明言を避けた。小泉首相は、その後、02年4月、03年1月、04年1月、05年10月と毎年参拝を行い、06年には、8月15日に参拝して、対中・対韓関係をいっそう悪化させた。また、2005年ごろからは、靖国神社付属の戦争博物館(遊就館(ゆうしゅうかん))の展示が、太平洋戦争の戦争責任はアメリカ側にあるとしていることが、欧米でも報道されるようになり、アメリカ国内からも靖国神社批判の声があがるようになった。
 一方、1991年9月には、最高裁判所で公式参拝を違憲とする判決が確定し(岩手靖国訴訟)、2004年4月には、2001年の首相参拝は違憲であるとする判決が福岡地方裁判所で下された。こうした厳しい状況のなかで、政府や小泉首相は、首相の参拝は私的行為であると明言するようになり、02年には、内閣官房長官の私的懇談会が無宗教の国立追悼施設を建設すべきだとの提言を行った。また、アジア外交の行き詰まりを打開するため、A級戦犯の分祀や靖国神社の特殊法人化などを求める動きが自民党のなかからも現れてきている。[吉田 裕]
『江藤淳・小堀桂一郎編『靖国論集』(1986・日本教文社) ▽戸村正博他著『検証 国家儀礼』(1990・作品社) ▽赤澤史朗著『靖国神社』(2005・岩波書店) ▽三土修平著『靖国問題の原点』(2005・日本評論社) ▽小堀桂一郎著『靖国神社と日本人』(PHP新書) ▽高橋哲哉著『靖国問題』(ちくま新書)』

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