中国,明初におこった帝位継承をめぐる内乱。太祖洪武帝は帝室の安泰を願って功臣を粛清し,皇子を全国の要所に封じて帝室の藩屛とした。その数は最終的には25にのぼった。ところが,太祖のあとをうけた建文帝は,側近の議をいれ,これら諸王の勢力を排除する政策をとり,周王・湘王・斉王・代王・岷王らが次々と犠牲になった。これをみて,北平(北京)にあった燕王は,削藩の計が自分にもおよぶのを察知して1399年(建文1)7月兵を挙げた。内戦は4年にわたってくりひろげられたが,燕王が京師(南京)を攻略したことによって終了した。勝利をおさめた燕王は即位し,成祖永楽帝となった。建文帝は落城に際し,兵火のなかに没したが,悲運の皇帝への同情から,帝の生死については数々の風説が伝わっている。なお,靖難というのは,挙兵にあたり,燕王が〈君側の奸を除き,皇室の難を靖んずる〉という名目を掲げたことにもとづく。
執筆者:寺田 隆信
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中国、明(みん)初に起こった皇位継承をめぐる内乱。太祖朱元璋(しゅげんしょう)は帝室の安泰を願って功臣を粛清し、皇子を全国の要所に分封した。彼らは民政にかかわることは禁じられたが、軍事権を与えられ帝室の藩屏(はんぺい)となるべく期待され、その数は25に上った。ところが、太祖の後を継いだ建文帝は側近の議をいれ、諸王の勢力を排除する政策をとり、周王、湘(しょう)王、斉王、代王、岷(びん)王らが犠牲となった。北平(北京(ペキン))にあった燕王は、削藩の計が自分に及ぶのを察知して、1399年7月に挙兵した。戦乱は4年にわたったが、燕王が京師(けいし)(南京(ナンキン))を攻略して終了し、1402年燕王は即位して成祖永楽(えいらく)帝となった。建文帝は兵火のなかに没したが、悲運の皇帝への同情から、その生死については数々の風説が伝えられている。なお、靖難というのは、燕王が挙兵にあたり、君側の奸臣(かんしん)を除き皇室の難を靖(やす)んずるという名目を掲げたのに基づく。
[寺田隆信]
『寺田隆信著『永楽帝』(1966・人物往来社)』
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明初の王室一族の内部抗争。2代建文帝の削藩策に対して,1399年叔父の燕王(永楽帝)が「君側の奸(かん)をのぞき,難を靖(やす)んず」との名目で靖難の軍を起こし,首都南京を陥れて1402年帝位についた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…98年帝が死んで皇太孫(建文帝)があとをつぐと,側近たちは諸王の勢力を削減して皇帝の地位を強化しようと考えたが,これを察知した叔父の燕王が,君側の奸を除いて国難を靖(やす)んずるという名目で挙兵した。これが靖難の変で,諸王が帝室の藩屛になると考えた洪武帝の意図は,まったく裏目に出た。4年にわたる内戦の後,南京を陥れた燕王は帝位につき,年号を永楽と改めた。…
※「靖難の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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