中国、明(みん)代初期の思想家。字(あざな)は希直(きちょく)、または希古(きこ)、号は遜志(そんし)。浙江(せっこう)省象山県の人。その廬(いおり)を正学と名づけた。儒仏を究めた明初の文雄、宋濂(そうれん)に学んで学殖を深めた。恵帝(建文帝)が1398年に即位すると翰林侍講(かんりんじこう)、翰林博士、文学博士と累遷し、国家大政の諮問にあずかり、燕(えん)王朱棣(しゅてい)(後の永楽帝)が兵をおこすと討伐の詔檄(しょうげき)を全部書いた。恵帝が自焚(じふん)し、成祖永楽帝が即位して、即位の詔(みことのり)を書くことを命ぜられると死をもって拒絶し、「燕賊纂位(えんぞくさんみ)」と書いて磔刑(たっけい)に処せられ、一族847人も族滅された。著書はいま『遜志斎集』24巻のみが残っている。思想内容は朱子学の枠を出ない。むしろ「大義名分」を発揮した正義の人として、党争、弾圧の激しかった明末に、とくに東林派に高く評価され、日本においても崎門(きもん)学派の人に評価された。
[田公平 2016年2月17日]
中国,明初の学者。浙江省寧海県の人。字は希直または希古,号は遜志,別に方正学とよばれる。代々官僚の家の子で,10歳で当代の碩学宋濂(そうれん)に学び,濂門の第一人者とうたわれた。はじめ洪武帝に召されたが,建文帝の即位とともに翰林院侍講に任ぜられ,ついで侍講学士にすすみ,国政の枢機に参画した。燕王(のちの永楽帝)が挙兵して〈靖難の変〉が起こると,帝の側近にあって輔佐したが,戦いに敗れて建文帝は没し,彼自身も捕らえられた。南京占領に先立ち,姚広孝は方孝孺を殺せば天下の学問の種子が絶えると忠告していたが,彼が即位の詔勅を書くのを拒否し,〈燕賊位を(うば)う〉と大書したため,永楽帝は彼を磔刑に処し,妻子をはじめ一族八百数十名を殺害した。その学問は宋学を継承し,永楽時代には,彼の文章を持っていただけで死刑になったと伝えられるが,《遜志斎集》24巻などが残っている。
執筆者:寺田 隆信
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