改訂新版 世界大百科事典 「鞆淵荘」の意味・わかりやすい解説
鞆淵荘 (ともぶちのしょう)
紀伊国那賀郡(現和歌山県紀の川市,旧粉河町)の荘園。石清水(いわしみず)文書の1072年(延久4)太政官牒によれば,1008年(寛弘5)ころ石清水八幡宮寺領として成立。真国(まくに)川(貴志(きし)川の支流)の上流域を占める広い荘園であるが,山間地域のため,平安時代の水田は13町余にすぎず,鞆淵薗とも呼ばれた。平安~鎌倉期の当荘については不明な点が多いが,1228年(安貞2)に石清水八幡宮寺より,現地の鞆淵八幡神社に送進された神輿(国宝)が現存することは注目される。1333年(元弘3)後醍醐天皇の勅裁によって高野山領に編入されたが,この前後より下司鞆淵氏と,惣荘結合をとげつつあった百姓との間に激しい抗争が起こった。南北朝期の47年(正平2・貞和3)ころより下司鞆淵景教と百姓が夫役(ぶやく)をめぐって対立したが,石清水八幡宮寺領時代の所務(しよむ)に準ずることを要求する百姓の主張が高野山の調停によって認められ,51年(正平6・観応2)紛争はいったん終息した。しかし守護畠山氏の被官となって勢力をのばした下司鞆淵範景が賦課した京上夫(きようじようふ)をめぐって,1418年(応永25)以降,抗争が再び起こり,下司・公文(くもん)は百姓と高野山の挟撃にあって没落した。その後28年(正長1)にいたり,高野山は念願の検注を実施し,当荘の支配をようやく確立した。当時の田数は41町5反余,分米は124石余となっている。しかし,15世紀半ばころまでには,下司・公文両職は天野社の山伏である長床衆の手に帰した。
執筆者:小山 靖憲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報