中世の自治的な組織の総称。特に村落共同体の運営機関としての惣が代表的である。惣の字は〈すべて〉〈全体〉の意味の国字であるが,中世には自治的な団体や地域に冠して用いることが多い。例えば惣国,惣郷,惣荘,惣村,惣百姓,惣寺(山)などの語があり,それぞれの単位で寄合を持ち,その寄合の構成員の総意によって事を決した。そして中世後期には,その団体や執行機関自体を惣と呼ぶようになった。
農村の百姓による惣結合は,領主支配に対応して,まず荘園を単位として形成された。これが惣荘の名で史料上に現れるのは鎌倉時代,特に13世紀の末からであるが,畿内近国における惣結合自体の形成はそれよりさかのぼるとみられる。荘園制が領域的な支配体制として整うに伴い,近隣の荘園との間での山野・用水などをめぐる対立,あるいは領主の収奪・非法への対抗,年貢の損免(収穫減に見合う免除)の要求などの必要から,荘内の名主・百姓が団結して訴訟することが増加するが,そのための訴状が荘官を除いた百姓だけの〈百姓等申状〉という形になる。そのような訴訟主体として惣結合が生み出されてきたのである。惣では,荘内の百姓の一味同心の団結を保つために掟を作った。その最も早い例は近江国奥嶋荘で,1262年(弘長2)に〈庄隠規文〉(置文あるいは隠し規文)を定め,惣に対する悪口のとがを,追放と小屋焼払いの刑罰をもって戒めた。また領主に納める年貢を百姓が定額で請け負う百姓請(地下請(じげうけ))も,13世紀の末ころからはじまった。惣の自治的な業務がふえると,その運営の経済的な保障として,共有地など惣の財産の確保が必要になる。その先駆的な例として,1271年(文永8)大和国松本荘の百姓等が5反の土地を〈心躰〉(進退)したことがあり,近江国菅浦荘で13世紀末に実力で自領内に囲い込んで住民に均等に配分した日指諸河(ひざしもろかわ)の土地も,係争地という特殊条件下ではあるが惣有地の一形態とみなすことができよう。惣の力が強まると,領内の検断(犯罪人の処罰と財産処分)を百姓自身が行う自検断の村も出現した。こうして中世後期になると,惣掟,惣有地,自検断などの諸要素を備えた自治的な共同体としての惣が各地に次々と成立していった。
中世前期の惣は,百姓の中の特権的な階層である名主層が他の住民に対してその地位を守るための閉鎖的な性格を持っていたが,中世後期の惣は,小農民の台頭を背景に構成員の範囲が名主層以外にも拡大された。それに伴って惣の単位は,荘園の枠に制約されず,現実的な百姓の生活と生産の場である村を単位とするようになったので,惣荘に対して惣村の名で類型化することができる。ただし,当時の呼称としては惣村を惣荘の名で呼ぶ場合が多い。村落共同体は一般に支配の末端組織という側面と,支配権力に対する抵抗組織という側面とを併せ持っているが,特権的な名主層だけの惣荘の段階にくらべて,一般の百姓まで含めた惣村の段階の方が抵抗組織という性格を強く持つようになる。また,惣村では構成員の平等原則が強まったので,指導機関は年齢階梯制によるおとな(乙名,老)によって構成されるのが普通だった。この惣村を基盤にして土一揆(つちいつき)が起こった。土一揆の展開の中で,惣村相互の連絡が恒常的になり,惣村の代表者による惣郷が結成される場合がある。例えば15世紀前半の山城国伏見荘では,古老に指導される六つの惣村の上に,侍分の沙汰人の一族に指導される惣郷があり,土一揆は惣郷単位で組織された。
土豪層の村落支配の強い地域では,土豪層の同族組織である同名中,あるいはその執行機関の同名中惣が未熟な惣村を包み込んでしまい,その同名中惣の連合として,惣郷に相当する地域権力が形成される場合がある。その代表例が戦国末期の伊賀惣国一揆や甲賀郡中惣である。これらの惣は自治組織としては最も強大なものに発達したが,それ自体が百姓に対する支配権力になったもので,惣村の発達の中でとらえるわけにはいかない。しかしこれらも被支配者が既存の支配秩序に抗して自治を獲得する動きの一環であったことは否めず,それゆえに中世特有の惣という語で呼ばれたのである。その意味で惣は惣村に代表される。惣村は中世末期になると,内部の階級対立,一部成員の大名被官化,惣財政の窮迫などによって弱体化し,近世には支配の末端組織に再編成された。それとともに惣村以外のさまざまな惣が,全般にその存在意義を失ってしまった。
執筆者:村田 修三
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鎌倉末期から室町時代に発達をみた村落の自治的結合組織。惣中(そうちゅう)、惣村(そうそん)、惣荘(そうしょう)とよばれることもある。鎌倉中期以降、小農民層の自立化が進行すると、旧来の名主(みょうしゅ)層のみを構成員とする村落結合にかわって、小農民層をも含めて運営される惣が各地に生まれてくるが、農民層分解の進行の度合いに照応して、惣の性格にも地域差がみられた。すなわち、もっとも後進的な地域では地侍(じざむらい)層を中核とし一郡的規模での惣がみられ、また、中間的地域では惣内部における名主の力が強く残存していた。しかし先進地域、ことに近江(おうみ)の平野地帯の惣は、名主・平百姓(ひらびゃくしょう)を含めた多数の構成員をもち、平百姓の惣内部での力も大きかった。
惣は農民にとって、日常の生活や生産活動のうえで大きな意味をもつとともに、領主に対する闘争を行ううえでも重要な役割を果たしていた。惣は惣有田(そうゆうでん)・惣山(そうやま)などの財産をもち、これを共同で管理し利用するとともに、それを惣の経済的基盤とした。そのために惣掟(おきて)を制定していたが、その内容は多岐にわたり、山林・用水の管理のほか、犯罪の防止、他村との貸借や軍事援助などについても定められており、この掟に違反した場合には、追放や罰金などの制裁も決められていた。その運営のために、しばしば寄合が開かれたが、それは村の鎮守(ちんじゅ)などで行われたために、宮座(みやざ)の組織とも深い関連があった。また、重要な事項の決定をするときには、一味神水(いちみしんすい)といって神前に供えた水を一同で飲み、団結を強めることもあった。農繁期には労働力の共同利用なども行われ、農民の日常生活に不可欠の組織となっていた。
この時代には、荘園領主に対して年貢の減免を要求したり、用水の管理に用いる費用である井料(いりょう)の下行(げぎょう)(用水の管理費の給付)を求める荘家(しょうけ)の一揆(いっき)とよばれる闘争が広範に展開されたが、これらは惣の組織に基づいていた。京都や奈良を中心に各地で頻発した徳政(とくせい)一揆も、惣を基盤に各地の農民が連絡をとって蜂起(ほうき)したものであった。戦乱に際しては、村を守るために堀をつくり、砦(とりで)を築くことなども行っている。しかし、惣の内部では大人(乙名)(おとな)層を中心とする村落指導者の力が強く、この層が武士の被官となったり、村役人に任命されるようになると、抵抗の組織としての性格が弱まっていった。
[黒川直則]
『三浦圭一著『中世民衆生活史の研究』(1981・思文閣出版)』▽『黒田弘子著『中世惣村史の構造』(1985・吉川弘文館)』
中世農民の自治的な共同組織。惣は「すべてのもの」「全体」を意味する語。一揆の時代といわれる中世社会では,多様な階層のそれぞれに連帯し一味同心する共同組織が形成され,惣を冠してよばれることが多かった。たとえば,惣寺・惣国・惣郷・惣荘・惣村・惣百姓など。農民の惣結合は,その共有財産の取得や処分の際に惣として署判を加えたり,惣分や惣中の衆議で掟を定めた。そのため惣といえば,惣百姓組織が第1にあげられる。惣百姓結合の強化と広がりが,惣村を単位とした土一揆をうむ基盤となった。
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…半済はのち永続的,全国的となり,荘園の年貢だけでなく,土地そのものを半分に分割するようになって,荘園制を崩壊に導いた。
[土一揆と馬借]
鎌倉中期以来,農村では農民の自治的結合としての惣(村)が形成された。近江の農村はとくに先進的であり,すでに1262年(弘長2)現存最古の村掟(村法)が蒲生郡奥島荘で制定されている。…
…ついで内乱が終息した14世紀末~15世紀中葉に,新しい寺領や官省符・荒川・名手荘などの重要な荘園に大がかりな検注を実施し,寺領の再建につとめている。なおこの時期には惣(惣村)の形成が各地でみられ,鞆淵荘,相賀荘柏原村,粉河荘東村などにその実態を示す好史料が残されている。
[畠山氏の分裂と根来・雑賀衆]
永享年間(1429‐41)には,高野山で学侶と行人の抗争が起こり,守護畠山氏の勢力にもかげりがみえてくる。…
…湖岸の道がなかったころ他との交通はほとんど舟に頼ったため,陸の孤島といわれた。大正年間1200余点の中世文書が発見され,中世社会ことに〈惣〉の研究にきわめて重要な史料を提供することとなった。 古代では湖北水運の一停泊地として《万葉集》にも歌われ,天皇に魚鳥を貢進する贄人(にえびと)集団が定着していたらしい。…
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[中世]
水稲耕作を基本とする日本の村落では,水利慣行や山川藪沢の利用などから慣習的な法規制が古代より成立していた。中世になると畿内およびその周辺地域の村落では,荘園の名田(みようでん)=名主(みようしゆ)体制が弛緩して小農民の広範な成長がみられるようになるが,この時期に村落の乙名(おとな)層の自立団結が進み,いわゆる惣(そう)が形成される。惣は構成員による全体会議(惣寄合(そうよりあい))で守るべき規則(惣掟(そうおきて),惣置文(そうおきぶみ)などという)を決定した。…
…頼母子親は拠出金(懸銭(かけぜに),懸米とよばれた)を私的に流用し,またこれを高利貸付けに利用したので,頼母子は純粋に相互扶助的なものとはいえず,在地の中小領主や商人の利益追求の手段,農民収奪の一方法でもあったといわれる。中世後期,戦国時代には,惣村において惣の頼母子講が結成され,頼母子講の構成員となることは惣村メンバーとしての不可欠の条件で,頼母子の懸銭,懸米の提供を怠る者は講から排除されるだけでなく,村落生活上のいっさいの扶助も与えられなかった。頼母子と徳政との関係は明瞭でないが,1546年(天文15)の室町幕府徳政令は,利息つきの頼母子は徳政の対象であるとしている。…
…年貢・公事は〈公平〉でなくてはならなかったのであり,限度をこえた負担を平民たちは積極的に拒否したのである。さらに南北朝時代にかけて,上層・下層のすべての平民たちが〈惣百姓〉〈惣荘〉の名において,一味同心(いちみどうしん)・一揆を結び,代官の罷免を要求して逃散することも広く見られるようになってくる。逃散は古くから,〈山林に交じる〉といわれたが,聖地でありアジールであった山林に,平民たちは実際にこもり,また室町時代には柿帷(かきかたびら)や蓑笠をつけて乞食の姿をし,世俗の縁から切れたことをみずからの衣装で示すことも行ったとみられる。…
※「惣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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