元来、東モンゴル高原に遊牧したモンゴル系の一部族。タタールの音訳。8世紀中ごろの突厥(とっけつ)碑文に「三十姓タタール」として表れるのが最初で、主として内モンゴルのフルンボイル地方にいたが、のち陰山地方に勢力を伸ばし、契丹(きったん)の支配下に入った。金代に、韃靼に服属していたモンゴルがしだいに台頭し、ついにチンギス・ハンに征服された。宋(そう)代では、その北辺、陰山方面のトルコ系部族オングートを白韃靼、その北方、モンゴル高原のモンゴルを黒韃靼と称した。明(みん)代では、北方に逃れた元朝の子孫を韃靼とよんだが、彼らは北元(ほくげん)と自称した。北元は、一時西北モンゴルのオイラート(瓦剌(わら))に圧迫されたが、ダヤン・ハンが16世紀初頭に内モンゴルを平定し、その子孫がモンゴル高原全土に発展した。
なお、ヨーロッパ人は、13世紀のモンゴル西征軍の残虐さから、モンゴル軍を地獄タルタルスからきたものとみなすとともに、モンゴル軍のなかにタタール(韃靼)がいたため、モンゴルおよびその支配下のトルコ系諸族をタルタル、タタールとよんだ。これを受けて、モンゴル的要素がまったく消滅した今日でも、ロシアでは、北方トルコ系住民を行政上タタールと称している。ソ連時代は、タタール自治ソビエト社会主義共和国であったが、ソ連崩壊後の1992年ロシア連邦内の共和国(タタールスタン共和国)となった。
[護 雅夫]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国文献でさまざまな意味で使われるモンゴル人に対する呼称。8世紀頃からモンゴル高原に進出したモンゴル系遊牧諸部族はタタルと総称され,中国文献では韃靼と表記された。12世紀には,総称としてのタタル(=韃靼)とは別に,モンゴル高原東部の一部族がタタルと呼ばれた。のちに明は,元の正統を継いだ王朝だと主張し,北に去った元の子孫のモンゴル人をあえて韃靼と呼んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
「タタール」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…その名は8世紀前半に建てられた突厥(とつくつ)碑文に初めて現れ,九姓タタール,三十姓タタール(トクズ・オグス)と称されている。また唐代の文献にもウイグルの支配下にあった韃靼(だつたん)の名が見えている。840年ウイグルが滅亡すると,モンゴリアには統一政権は生まれず,タタール部をはじめとする大小の遊牧集団が勢力争いを繰り返した。…
…遼の滅亡後,モンゴリアには,モンゴル系の部族としてタタール,ケレイト,フンギラト,メルキト,ウリヤンハイ,オイラート,モンゴル等の名が見られる。このうちタタール(韃靼)の勢力が強かったことから,中国ではモンゴリアのことを韃靼(だつたん)と呼ぶようになった。12世紀後半,モンゴル部にチンギス・ハーンが出て,モンゴル系諸部族を統一,さらにモンゴリア全体を統一し,モンゴリアにおけるモンゴル部の支配が確立するにおよんで,これら諸部族はモンゴルと総称されるようになった。…
※「韃靼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加