日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ホーエンシュタウフェン朝
ほーえんしゅたうふぇんちょう
Hohenstaufen ドイツ語
ドイツのシュワーベンの豪族ホーエンシュタウフェン家の興した王朝で、単にシュタウフェン朝ともいう。神聖ローマ帝国第3代目の王朝。
ホーエンシュタウフェン家の家門は、ビュレン伯フリードリヒに始まる。その子フリードリヒ1世は聖職叙任権闘争に際し、終始皇帝ハインリヒ4世を支持、1079年シュワーベン公に任ぜられ、皇女アグネスと結婚した。子供のフリードリヒ2世、コンラートの兄弟もまた皇帝ハインリヒ5世を助け、ザリエル王朝断絶後は、その遺領とドイツ王位継承権を相続した。1125年の国王選挙では、フリードリヒ2世はロタール3世に敗れたが、その後、フリードリヒの弟コンラート(3世)は、逆にロタールの後継者ウェルフ家のハインリヒ(傲慢(ごうまん)公)を退けてドイツ国王に選ばれ、ホーエンシュタウフェン王朝を開いた(1138)。
コンラートの死後、フリードリヒ2世の子フリードリヒ1世(バルバロッサ)が王位を継いで(1152)、皇帝戴冠(たいかん)(1155)後、聖職叙任権闘争中崩壊に瀕(ひん)した皇帝のイタリア支配を回復すべく、精力的にイタリア政策を展開すると同時に、ドイツ国内では、諸侯に対抗するため帝国直轄領の拡大に努めた。そして、最大の対抗者ウェルフ家のハインリヒ(獅子(しし)公)を失脚させるのに成功、王朝の基礎を確立した。その子ハインリヒ6世は、シチリアの王女コンスタンツェと結婚し、シチリア国王の死後、同王国をも相続(1194)、最大の版図をつくりあげた。だが、夭折(ようせつ)したため、彼の意図した神聖ローマ帝国とシチリア王国とを合体させた世襲帝国建設の夢は挫折(ざせつ)した。遺児フリードリヒ(2世)が幼かったので、ウェルフ家のオットー4世がドイツ国王に選ばれ、ホーエンシュタウフェン派はシュワーベン公フィリップを対立国王にたてて争ったが、フィリップは暗殺の非運にみまわれた。
1212年、フリードリヒ2世は、教皇とホーエンシュタウフェン派に推されてドイツ国王に即位。フランスと結んでオットー4世を破り、王朝を再興したが、ドイツの統治を息子たちに任せ、シチリア王国を中心とするイタリア経営に没頭したため、ドイツ諸侯に大幅な譲歩を余儀なくされた。イタリアにおいても、教皇とロンバルディア諸都市の反抗に悩まされ続け、治世末期には、ハインリヒ・ラスペ、ついでウィルヘルム・フォン・ホーランドが対立ドイツ国王にたてられるありさまとなった。フリードリヒ2世の死後、コンラート4世がドイツの王位を継いだ(1250)が、彼がイタリア遠征中死亡するに及んで、ドイツは大空位時代に突入し、その子コンラディンがシチリアの遺領の回復を試み、捕らえられて処刑された結果、ホーエンシュタウフェン朝は断絶した。
[平城照介]