飯塚浩二(読み)いいづかこうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「飯塚浩二」の意味・わかりやすい解説

飯塚浩二
いいづかこうじ
(1906―1970)

人文地理学者。東京生まれ。動物学者飯塚啓(あきら)の子。1930年(昭和5)東京帝国大学経済学部を卒業。1932年給費留学生としてフランスのソルボンヌ大学に留学、ブラーシュに率いられたフランス人文地理学派の流れをくんだ。帰国後、立教大学教授を経て、1943年以後東京帝国大学東洋文化研究所教授となる。また、1958~1960年、1964~1965年の2回にわたり同所長を務める。1967年東京大学名誉教授、札幌大学教授となった。多くの著述があり、地理学界のみならず、広く社会に鋭い批判を加えた。主著に『社会地理学動向』(1932)、『地理学批判』(1946)、『比較文化論』(1948)、『世界史における東洋社会』(1948)、『日本の精神的風土』(1952)、翻訳にブラーシュ著『人文地理学原理』(1940)、フェーブル著『大地人類の進化』上(1941)などがある。

[木内信藏]

『『飯塚浩二著作集』全10巻(1974~1976・平凡社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「飯塚浩二」の意味・わかりやすい解説

飯塚浩二
いいづかこうじ

[生]1906.4.3. 東京
[没]1970.12.4. 東京
地理学者。 1930年東京大学経済学部卒業後,同学部助手を経て,32年から2年間パリ大学に留学し,ドゥマンジョン,ド・マルトンヌに師事した。留学前『社会地理学の動向』を発表してビダール・ド・ラ・ブラーシュの地理学にすでに深い理解を示していた。帰国後も地理学説史についての論文をいくつか発表し,フランス学派の生活様式概念を社会科学としての地理学のなかに生かす試みを行なった。その理論は第2次世界大戦後の日本の人文地理学に大きな影響を与えた。 43年以降,東京大学東洋文化研究所教授としてアジア研究,比較文化論などの分野で多くの著書を発表し,また,多方面にわたって多くの研究者を育成した。その著作は『飯塚浩二著作集』 (10巻,1974~76) に収められている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「飯塚浩二」の解説

飯塚浩二 いいづか-こうじ

1906-1970 昭和時代の人文地理学者。
明治39年4月3日生まれ。飯塚啓(あきら)の子。パリ大に留学,ブラーシュにまなぶ。立大教授をへて,昭和18年母校東京帝大の東洋文化研究所教授,33年所長となる。経済史的・文明史的な研究方法を導入し,従来の地理学を批判。比較文化論の視座から日本や東洋を考察した。昭和45年12月4日死去。64歳。東京出身。著作に「日本の軍隊」「アジアのなかの日本」など。

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