飯田町
いいだまち
[現在地名]珠洲市飯田町
現市域の内浦のほぼ中央にあり、若山川が南流する。内浦街道は当地で若山川沿いに若山方面に向かう道(八太郎越)と、外浦の馬緤村などと結ぶ道(馬緤往来)を分岐する。公的には村方扱いであるが、少なくとも江戸時代は町立てで、在郷町の性格を有した。中世は若山庄のうちで、応永二〇年(一四一三)二月九日の恒俊本光寺山田畠置文(本光寺文書)に「飯田のかうのさかいハ道を限」とある。永正一五年(一五一八)三月、能登を旅した冷泉為広の「能州下向日記」に飯田とみえる。大永年間(一五二一―二八)と推定される四月二日の専光寺慶心書状(正福寺文書)によれば、当郷の在所長衆と思われる有正・則真・末次が加賀専光寺(現金沢市)門徒の中心的存在として活動していたことがわかる。戦国後期頃の当郷の給人は遊佐孫六であった(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)。天正一一年(一五八三)七月八日に前田利家は、飯田などの四ヵ村の堂宇を破却し、府中(現七尾市)まで漕運するよう穴水・南北(現穴水町)百姓中に命じている(「前田利家印判状」川島村文書)。なお上杉謙信より小泊・伏見・細谷を宛行われた飯田与三右衛門は(天正五年一一月一六日「上杉謙信朱印状写」歴代古案)、従来当郷の土豪と考えられてきたが、謙信に従って能登へ進攻した越後の将であるとの説が有力である。慶長四年(一五九九)閏三月銘の前田利家画像賛(妙珠寺蔵)に「飯田村郷内賀野村」とみえる。
正保郷帳に飯田町とみえ、高三〇二石余、田一七町五反余・畑二町六反余、新開高五一石余(免二ツ四歩九厘)。承応三年(一六五四)の能登奥両郡収納帳では草高三一〇石余、免四ツ八歩、夫銀二〇八匁余。
飯田町
いいだまち
[現在地名]東区泉三丁目
作子町の東の東西筋。天道町と九十軒町の間の二丁。東は九十軒町を横切り、平田院を経て武家町に続く(尾張志、府城志)。清須越しではない。当初東新町ととなえたらしいが、元和年中(一六一五―二四)小平治町または小平次町に。小平治という者が初めて住宅を建てたことによる。「張州志略」によれば承応二年(一六五三)一二月または万治元年(一六五八)、「尾陽雑記」によれば元禄元年(一六八八)飯田町に改めたとある。
飯田町
いいだまち
[現在地名]姫路市飾磨区三宅一―三丁目
飾東郡に所属。姫路城下と飾万津を結ぶ街道筋のほぼ中間に位置する。近世初期に飯田村の一部が町場化し、飾万津町二〇町のうちの一町として飾磨津の町奉行の支配下にあった。元文五年(一七四〇)の地子銀高一〇四匁余・物成米高三斗余(姫路町飾万津町地子銀控)。
飯田町
いいだまち
[現在地名]松本市中央二丁目
松本城下町の枝町一〇町の一。「信府統記」に「中町ノ枝町ナリ、南北長サ三町四拾九間、或ハ三町五二間共、家数六拾七軒、幅四間、橋数四ケ所、町番所一ケ所、昼夜町ヨリ番人ヲ置ク、乾瑞寺 西側ニアリ臨済宗ナリ、小路二ケ所鍋屋小路・玄知小路ナリ」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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