飾磨津(読み)しかまづ

百科事典マイペディア 「飾磨津」の意味・わかりやすい解説

飾磨津【しかまづ】

播磨国にあった港町。飾万津とも書く。現在の兵庫県姫路市の南部に位置し,播磨灘に面していた。一帯には,平安末期から鎌倉期まで奈良薬師寺領の飾磨荘,南北朝期頃から飾万津別符(べっぷ)が存在し,江戸時代は姫路城下の外港として栄えた。飾磨荘・飾万津別符は夢前(ゆめさき)川河口の左岸一帯に比定され,江戸時代の飾東(しきとう)郡飾磨津は野田川下流右岸から船場(せんば)川下流左岸にかけての南北に長い地域を占めていた。古くは《万葉集》にみえる飾磨江(しかまえ)にあたり,飾磨・飾磨川・飾磨市などは歌枕として知られる。1002年に花山(かざん)法皇書写(しょしゃ)山(現姫路市円教寺)に参詣するため〈飾磨津湊〉で下船している。鎌倉中期には,一遍(いっぺん)が人々の集住する飾磨津で別時念仏を行っている。江戸時代の飾磨津が港町として発展するのは,池田輝政が播磨一国の大守として入部してからである。輝政は1601年から1609年にかけて姫路城築城と並行して姫路城下から飾磨津に通じる運河(三左衛門堀)を開削し,この運河沿いに浦手(うらて)6町と岡手(おかて)5町を含む〈飾磨津町二十町〉と称される町場が形成された。1682年の20町の家数は1530軒,人数は9927人で,地子銀9貫目を上納していた。1808年に姫路藩の木綿専売が施行され,国産会所設立,飾磨津からの江戸積みが開始された。1940年に飾磨市の一部となり,1946年には飾磨市が姫路市に合併した。
→関連項目飾磨

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改訂新版 世界大百科事典 「飾磨津」の意味・わかりやすい解説

飾磨津 (しかまづ)

播磨国(兵庫県)飾東郡,船場川河口左岸にある港町で,町の東が入江となっている。古くは《万葉集》にみえる思賀麻江である。姫路藩主池田輝政はここを城下の外港として重視し,1601年(慶長6)入江に向島を建設し,船役所・船置場を置き,船手(ふなて)(水主(かこ))を配置した。09年には城の外堀から南へ飾磨入江に達する運河(三左衛門堀)を通じようとしたが失敗した。15年(元和1)本多忠政の代に船場川が改修されて,以後城下から飾磨御蔵まで舟運によって蔵米が下されるようになった。入江はなお水深が浅く,小舟の出入りしかできなかったが,1808年(文化5)藩の木綿専売が施行され,国産会所の設立,飾磨津からの江戸積みが開始され,その必要から1815-23年(文化12-文政6)入江の浚渫(しゆんせつ)と護岸工事がなされた。さらに45年(弘化2)港の南に開発された新田の地先に,新水路・波戸・湛保(たんポ)(入渠)を築く築港がなされた。浦手6町,岡手5町の町場であった。1940年飾磨市となったが,46年姫路市に合併。飾磨港も姫路港の一部をなす。
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世界大百科事典(旧版)内の飾磨津の言及

【播磨国】より

…それにともない交易市場や物資集散港が発達する。市では《明月記》にみえる〈志賀麻市〉つまり国府の外港飾磨津の市が知られ,佐用郷の市庭(いちば)も鎌倉時代から出てくる。港では大部荘外港の魚住泊が古く,法然の衆生結縁で有名な高砂浦や室津も古い。…

※「飾磨津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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