館林城跡(読み)たてばやしじようあと

日本歴史地名大系 「館林城跡」の解説

館林城跡
たてばやしじようあと

[現在地名]館林市城町・尾曳町・大手町

東西三キロに及ぶじよう沼の西北部に突き出た半島状の地を中心に立地している平城。沼に突き出た半島部分が狐の尾のような形をしているところなどから、尾曳おびき城の別称がある。立林城とも記された。佐貫さぬき庄の地頭・国人の佐貫氏を継承した舞木氏の家臣赤井又六(但馬守・法蓮)が一五世紀中葉に築城し、対岸の大袋おおふくろ城より移ったという(「館林城城主覚書」県文書)。赤井氏の築城には年老いた狐が尾を曳いて縄張りを教えたという伝説があり、これも尾曳城の別称の由来となった。このため江戸時代には館林城下では狐を保護するため家中はもちろん商家といえども畜犬が許されず、また野犬を殲滅するため年少の藩士らが城内・城下において毎月犬狩隊を組織して野犬駆除に努めたという(宮杉家公用記「尾曳之跡」所収)。城の外周には由緒不詳の多くの稲荷神があった。

享徳の乱中の文明三年(一四七一)には、赤井氏は古河公方足利成氏に属したので、山内上杉氏家臣長尾景信らに攻められて落城している(同年九月一七日「足利義政感状写」御内書符案)。この時城に立籠ったのは赤井文三(信濃入道)・文六で、城は湖水が三方を巡っているので、陸路をふさぎ、西向きの陸地篠崎という地に寄手の諸家が順番に警備して舟行を留めて、兵糧攻めにして降したという(松陰私語)。赤井氏はその後足利成氏方の反攻で城を回復している。永禄五年(一五六二)二月には越後から関東へ侵攻してきた上杉輝虎の攻撃を受け、赤井照康は降伏して城を退去した。この時新田金山につたかなやま(現太田市)の横瀬(由良)成繁が赤井照康の助命嘆願をしている(同年二月二八日「須田栄定書状」上杉家文書)。赤井氏に代わって、その年に足利あしかが(現栃木県足利市)より長尾景長が入城し(同年二月二七日「上杉輝虎書状写」聴濤閣集古文書)、以後天正一三年(一五八五)正月まで長尾景長・顕長の居城であった。同年新田金山城の由良国繁と同盟する長尾顕長(実は国繁の弟)は小田原北条氏に抗して攻撃されて落城し、以後、北条氏の支配下に属した(同年二月一二日「北条家掟書」松本稔氏所蔵文書)。天正一八年関東に侵攻した豊臣秀吉の軍によって四月に佐野さの(現栃木県佐野市)、新田、松井田まついだ(現碓氷郡松井田町)の諸城とともに落城した(同月二九日「佐竹義久書状」秋田藩家蔵文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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