馬口労町(読み)ばくろうちよう

日本歴史地名大系 「馬口労町」の解説

馬口労町
ばくろうちよう

[現在地名]水戸市末広すえひろ町一―二丁目・さかえ町二丁目

東は馬口労町見付で下金しもかね町に境し、西は常葉ときわ谷中やなかに至る東西に走る町で、長さは六町二〇間四尺。東から西へ一町目から六町目に分れ、馬口労町見付の左右は神崎かみさきから続く土塁と堀があり、谷中との境界にある柵は城下町常葉村の境をなした。「新編常陸国誌」に「旧馬喰町ニ作ル」とみえる。古くは常葉村に属し、「水府地名考」に「この地は西方より府下への往還なれハ古るく宿並なとありつらん元来常葉の地にて(中略)全く町となりしは正保元年よりそ町家の裏は皆今に常葉の郷地なり」とみえる。

馬口労町
ばくろうまち

[現在地名]米沢市本町ほんちよう一丁目・城南じようなん四丁目

みなみ町から南に続く会津街道両側に発達した町人町。慶長年間(一五九六―一六一五)に成立した脇町一三町の一。ただ米沢藩で馬市が開始されたのは正保二年(一六四五)で、当町での開始は、慶安四年(一六五一)当町を含む置賜おきたま郡内一一ヵ所の馬市開設日次が定められてからである。当町市日は六月三日から一九日まで(同年馬市覚)。町名はこの年以降につけられたと推定される。

馬口労町
ばくろうまち

[現在地名]秋田市旭南きよくなん一―三丁目の各一部

外町南部で東西方向に町割され、東はあさひ川を渡り羽州街道に連なる。川端かわばたおお町・ちや町・かめの丁の諸通りの起点。藩政初期の町割と思われる。当初羽州街道は馬口労町から茶町筋を通し、寛永八年(一六三一)に馬口労町から大町筋へも道を通じた(梅津政景日記)。元禄八年(一六九五)六月一四日の町奉行からの「被仰付」(大町三丁目記録 永代帳)に「自今以後戸島・湊其外何方より何急成共、送参候共、六町ニかまひ不申、馬口労町へ指越可申候、馬町・馬次・はたご町ニ候」とあり、馬口労町の性格が規定された。

馬口労町
ばくろうまち

[現在地名]能代市日吉ひよし

東に畑地を隔てて御材木場おざいもくばがあり、北はなか町・羽立はだち町。

享保一三年(一七二八)能代町絵図(能代市役所蔵)に博労町とある。寛保元年(一七四一)の「代邑聞見録」に寛文年間(一六六一―七三)に成立して初立はだち町と称したが、同年間に改めたとある。初立町といっしょに成立したが、即時に分町したのであろう。享保一五年の「六郡郡邑記」に家数九〇軒とある。文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)によると、町の東端の北側に公地がある。

馬口労町
ばくろうまち

[現在地名]大館市馬喰ばくろう

城下町西南部の町人町。東西に走る道路を軸に形成され、西はおお町と丁字形に交差する。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「馬口労町」とある。「馬町」ともいい、「六郡郡邑記」に「延宝三卯大町はアラ町と云、土民アラ町、馬町に住居の処に、(中略)馬町へ商人酒屋共引移り」とみえる。

延宝三年(一六七五)の大館町市日相定之事(大館肝煎文書)によればなか町と交互に七の三斎市を立て「七月日市の馬市如先規之博労町へ相定候事、付市日に出候馬は立前の市へ可出之事」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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