馬籠村
まごめむら
[現在地名]本吉町 滝沢・大柴・鹿の子・中平・信夫・大東・平椚・上野・午王野沢・馬籠町・馬籠町頭・向畑・小金山・深萩・下要害・寺要害
津谷川支流の馬籠川上流の山間に集落が散在し、南は入谷村(現志津川町)、西は登米郡狼河原村(現東和町)、北は磐井郡大籠村(現岩手県東磐井郡藤沢町)、東は小泉村に接する。当地方は古くから産金の地として知られ、古代の本良庄の年貢も金などで納められていた。近代まで御岳金山・宮城鉱山があり、黄金山・十匁・商人沢などの地名も残る。また古くから秀衡流と称する赤目製鉄があり、永禄年間(一五五八―七〇)には布留(のち千松)兄弟が備中流製鉄法を伝えたという。また慶長一〇年(一六〇五)頃から、馬籠大柴の佐藤十郎左衛門信治らが中国地方から点砂製鉄法を導入、同一一年鋒森の麓に
屋を作ったともいう(仙台藩製鉄史)。
馬籠村
まごめむら
[現在地名]長崎市緑町・目覚町・茂里町・銭座町・上銭座町・幸町・宝町・天神町・御船蔵町・西坂町・浜平一丁目
浦上山里村の南部にあり、西を浦上川が流れる。戦国期から長崎に通じる浦上道(時津街道)があり、馬を宰領する施設が設けられていたとされる。長崎の出入要路六口の一つで(長崎名勝図絵)、長崎奉行の長崎外への出張に際して「まこみ口」など五ヵ口に大村城主から勤番が派遣されるという(崎陽群談)。江戸時代は幕府領長崎代官支配で、正保国絵図に馬籠村とあり、高五〇石余。延宝九年(一六八一)当時の「馬込」の船数九・御蔵五(寛宝日記)。元禄国絵図に村名がみえる。享保年間(一七一六―三六)里郷より当地の聖徳寺下までの一帯が埋立てられ、浦上新田が造成された。天保郷帳では浦上村のうちで、郷乙名が置かれていた。慶安元年(一六四八)幕府の御用船を格納する御船蔵四棟が設置され、船頭二人・水主二〇人(のち一〇人)が配された(長崎市史)。
馬籠村
まごめむら
[現在地名]佐多町馬籠
伊座敷村の東から南に位置し、西と東は海に面する。南端に佐多岬が突き出す。浦として西岸に尾波瀬浦、東岸に大泊浦・外之浦があり、大泊は湊としても知られる。集落として北部に馬籠・東山崎、南部に尾波瀬・大泊・田尻・外之浦などがある。佐多岬に御崎権現(現御崎神社)があるが、「三国名勝図会」は同社を山崎村所在と記しており、山崎村は当村の異称であった。元禄国絵図の当村域付近には「汀野迫村」、同村内の小迫村、上坂本村がみえる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に高五二八石余の山崎村、高二八八石余の汀野迫村、高三五〇石余の上坂本村がみえる。元禄国絵図にも同高の三ヵ村がみえるが、小迫村は村高の記載はない。
馬籠村
まごめむら
[現在地名]山口村大字神坂 馬籠
宝暦七年(一七五七)の「吉蘇志略」に「(四至)南は湯舟沢に至る、東北は山を以て界と為し妻籠に至る、西は濃州落合駅に至る。(支村)嶺。駅路在り、茶店多し」とあるように、美濃国の北端の宿場落合から十曲峠を登りつめた「新茶屋」を国境にして、荒町・馬籠宿・峠集落と中山道沿いに街村を形成し、馬籠峠で妻籠村と境していた。
馬籠村が文献の上に現れてくるのは鎌倉時代の初期で、木曾福島町板敷野の板野氏の先祖が大坂冬の陣の帰途、馬籠村の廃寺から持ち帰ったという「紙本墨書大般若波羅蜜多経」(板野五良三良氏蔵)全一〇〇巻の巻一奥書には「建保三年五月十二日校始之 以円城院本校之了 行顕」とあり、そのほとんど全部の奥書に「美濃州遠山庄馬籠村法明寺常住」と記入されている。
馬籠村
まごめむら
[現在地名]大牟田市一部町・沖田町・黄金町一―二丁目・馬場町・駛馬町・馬込町一丁目・宮原町一―二丁目・神田町
一部村の西、北西流する諏訪川右岸にある。北は下里村。宮原天満宮にある貞和六年(一三五〇)九月の紀年銘のある石層塔残闕(県指定文化財)は、「大願主馬籠住人」によって造立、奉納された。天正一五年(一五八七)高橋統増(立花直次)領となり、文禄四年(一五九五)の知行方目録(三池立花家文書)では「まこめ」は高八二四石余。元和七年(一六二一)三池藩領となる。同年の郡村帳(同文書)では馬籠村は玄蕃高一千二二二石余・新田高一石余、小物成は山手米七斗余。
馬籠村
まごめむら
[現在地名]田富町馬籠
笛吹川右岸に位置し、東は大田和村、南は笛吹川を挟んで上野村(現三珠町)、西は藤巻村、北は西花輪村。笛吹川の堤の後を西流する空穂川が村の南西部で笛吹川に合流する。慶長古高帳では高一九七石余、幕府領。寛文一一年(一六七一)の検地帳(県立図書館蔵)では上田五町五反余・中田四町四反余・下田四町余・下々田七反余、上畑一町七反余・中畑一町一反余・下畑一町五反余・下々畑四反余、屋敷五反余で、高三〇〇石余、ほかに薬師免田畑七畝余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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