日本大百科全書(ニッポニカ) 「高取藩」の意味・わかりやすい解説
高取藩
たかとりはん
大和(やまと)国高市(たかいち)郡高取(奈良県高取町)周辺を領有した藩。高取の南方山地にある高取城は、南北朝時代以降、越智(おち)氏の城砦(じょうさい)であったが、筒井順慶(つついじゅんけい)に対抗して滅び、1580年(天正8)の一国一城令の際に一時破却された。豊臣(とよとみ)政権下では松倉豊後(まつくらぶんご)が入り、秀吉の弟秀長が郡山(こおりやま)城に入って以来は、その控城(ひかえじろ)として脇坂安治(わきざかやすはる)、越智久太郎が差配したが、いずれも長続きせず、秀長の重臣本多太郎左衛門(ほんだたろうざえもん)が入部している。その子利朝(としとも)は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦い後は2万5000石を受けて在城。3代目利家(政武)のとき、嗣子(しし)なくして1637年(寛永14)絶家となった。その後1640年譜代(ふだい)の大番頭(おおばんがしら)植村出羽守(うえむらでわのかみ)家政(いえまさ)が2万5000石の采地(さいち)をもって入部、近世高取藩が確立する。6代家道、7代家久、9代家長(幕閣老中)のときそれぞれ大和国内の幕領を預けられ、諸制整ったが、13代家保(いえもり)の1863年(文久3)天誅(てんちゅう)組の蜂起(ほうき)にあい、来襲を撃退して、その後の追討にあたった。14代家壺(いえひろ)に至り、1869年(明治2)2月版籍を奉還、藩知事となった。71年廃藩。領域は高取県、奈良県、堺(さかい)県、大阪府を経て87年再置の奈良県に編入。城下町は上土佐(かみとさ)。上子島(かみこじま)の宗泉寺(そうせんじ)(植村家政の旧宅跡)には宗廟(そうびょう)がある。
[平井良朋]