通常は江戸時代,とくに幕末における天皇尊崇の思想をいう。天皇尊崇の思想は強弱の波はあれ日本史に一貫して見られるが,時代によってそのあり方がかなり異なる。江戸時代には天皇は政治的実権を完全に失っていただけでなく,〈禁中並公家諸法度〉や所司代を通して幕府に厳しく規制,監視されていた。しかし,天皇は古代以来の朝廷の機構を一応は保持し,最高権力の構成要素をなす官位官職授与権--官位官職は武家には単なる,しかし重要視された栄典であった--や元号と暦との制定権を,行使については幕府の厳重な制約をうけつつも一応維持していた。そうして,将軍自身が天皇から征夷大将軍に任命されることによって,公的権力としての資格を補強ないし基礎づけていた。この意味では,天皇は日本の最高権力という資格を潜在化した形で保っていたということもできよう。こうした現実を背景として,尊王論は江戸時代当初から一貫して存在する。思想的にはそれは儒教の系譜に立つものと国学の系譜のものに大別される。前者にはニュアンスの差があるが,最高権威としての天皇と政権の行使者としての将軍との間に上下関係を認める名分論が基本となっていたといってよかろう。他方,国学の尊王論は記紀の神話を事実として前提し,皇祖神より血統的連続性をもつ天皇に絶対性を認める論理を基礎としていた。こうした尊王論は社会全体への浸透度という点では限界があったが,江戸時代全体を通じて天皇の権威をはっきりと否定した主張は探し出し難い。しかし逆に,ペリー来航までには幕府による実権の行使に反対した尊王論を見つけることも,同様に困難である。幕末までは尊王と敬幕(幕府の敬重)とが両立し,むしろ不可分に結びついていた点に特徴がある。
この両者の関係をめぐって,将軍は天皇の〈委任〉をうけて実権を行使するといった理論が,すでに初期から存在した。これは前述したような天皇と将軍との関係を,学者が合理的に説明しようとした理論で,当初には朝廷や幕府の当局者の間に浸透していたようには見えない。しかし,これが幕末の最終段階には重要な政治的役割を演ずる。これとは別に,歴史書には古代末に不徳な天皇が続き,安民の実を挙げなかったために,天子の名と実,権威と実権とが分離して,実権は幕府に移ったという説明が見られる。この歴史論は上述の説明よりも,むしろ中国史との類比のもとに,幕府(ないし摂関)政治成立以前の天皇は,中国の天子と同様に権威と実権とを集中し,〈大権〉を行使していたという像--歴史的事実の説明としては,前掲の〈委任論〉と同様に問題である--を提示したことによって,後の時代に重要な影響を与える。幕末に天皇親政論が出てくることは,これなしには考えられないであろう。
幕末における内外の危機に対応して登場する水戸学は,攘夷を創唱すると同時に尊王と結びつけ,その後の過程で重要な役割を演ずる尊王攘夷の観念を打ち出した。ここでは,儒教の名分論を基礎としつつ国学の理論をもとり入れ,一系の天皇が存続し忠の道徳が妥当してきた日本の国家体制(国体)の優秀性を強調しながら,尊王が以前にないほど強く説かれる。しかし,天皇-将軍-大名-藩士という各級の者が直接の上位者に忠誠をささげることが不動の前提となっているため,尊王はこの階層秩序を維持しようとするものにほかならない。この意味でそれは,幕藩体制の階層秩序を防衛するために西洋の思想文物の浸透を阻止することに焦点をおいたその攘夷論と不可分の関係にあり,敬幕と結びついた江戸時代尊王論の枠内にとどまっていたといってよい。アヘン戦争(1839-42)の衝撃とともに,水戸学の尊王攘夷論は広く武士層の間に浸透しはじめる。ここでは,軍事的侵略の危機感の増大に対応して,攘夷論が西洋列強に対する軍事的対抗意識,軍事的並立意欲に焦点を移して高まると同時に,日本全体が一つの政治単位だという,水戸学にすでにきざしていた国家意識がいっそう展開する。この国家意識につれて,尊王論も徐々に高まり,江戸時代には潜在化していた日本の最高権力としての天皇という観念が,漸次顕在化しはじめる。当時には一つの政治体を君主一人で代表させる考え方が一般的であったが,将軍は階層的な武士的主従関係の頂点という性格を刻印されているために,日本全体を一人で代表するという点では,むしろ天皇のほうがふさわしかったからである。
1853年(嘉永6)のペリー来航を経て,58年(安政5)に日米通商条約が勅許を求めつつ無勅許で調印されると,下級武士層を主たる担い手として尊王攘夷運動が勃興する。幕藩制の政治機構とは離れて,むしろそれに対立する形で彼らが独自の政治運動を始めたことは画期的であるが,ここでは幕府に任せていたら日本はやがて西洋列強の植民地となってしまうといった危機感を基礎として,攘夷論が激しく高揚する。それにつられて,尊王論も敬幕論から明確に分離し,反幕さらに討幕の意味を帯びて急激に盛り上がる。この過程でかつての〈委任論〉は,天皇=朝廷が積極的に国政に関与するのを支えるだけでなく,天皇こそが日本の最高かつ正統な君主だという観念を普及させる役割を演ずる。そうして,この観念は単に尊攘派ないし尊王討幕派に限らず,幕府関係者の間にまで浸透する。明治維新の過程で将軍によって〈大政奉還〉がなされるのはこのためである。また,討幕派の間には〈天皇親政〉が日本本来の政治制度であるという観念が高まり,この意味で〈王政復古〉が主張される。幕末に高まった天皇こそが日本の最高かつ正統な君主だという観念は,明治以後第2次大戦における敗戦まで,ますます確固とした形で社会全体へ浸透する。一方,天皇親政論は天皇が〈統治権を総攬〉するという帝国憲法の規定に結実するが,それが現実にどこまで機能したかは問題である。少なくとも〈天皇不親政〉が日本の伝統であり,これが天皇の一系性を支えてきたという観念が,明治以後もそれなりに根強く存在したこと,またこの観念が立憲的制度の受容を促進したことは,看過されてはならないであろう。
執筆者:植手 通有
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尊皇論とも。政治支配秩序の安定をはかるために天下の統治者である王を尊ぶべきであるとする考え方。日本では儒教思想が体系的に摂取された江戸時代に盛んになった。尊王論は,君臣上下の名分を厳正に保つことが封建的社会秩序を維持するうえで重要であるとの考えから,その頂点に位置する天皇を崇敬せよとの主張で,その意味では幕府を敬うことと本質的な矛盾はない。しかし近世後期~幕末期に,幕府権力が弱体化するにともない,天皇が幕府にかわって国家統一のシンボル的存在として政治的に浮上し,ついには討幕論と結びついた。近代の天皇制国家では忠君愛国論に衣替えし,臣民道徳として人々の意識を規制した。
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…西洋諸国は卑しむべき夷狄(いてき)だから,接近してくれば打ち払うべきだという説であるが,この攘夷論の根底にあったのは,西洋諸国の危険をキリスト教やその他の有害思想の浸透といういわば間接侵略に焦点をおいてとらえる見方である。これは国内の民心の動揺,離反にたいする危機感と対になっており,水戸学では攘夷論と尊王論(上下秩序確立論)が不可分に結びついて展開される。このため,その攘夷論には,対外危機ないし攘夷を強調することによって,崩れかけた幕藩体制を立て直そうとする傾向すら出ている。…
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