高橋道八(読み)タカハシドウハチ

デジタル大辞泉 「高橋道八」の意味・読み・例文・類語

たかはし‐どうはち〔‐ダウハチ〕【高橋道八】

江戸後期に始まる清水陶工代々の名。→仁阿弥道八にんなみどうはち

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精選版 日本国語大辞典 「高橋道八」の意味・読み・例文・類語

たかはし‐どうはち【高橋道八】

  1. 江戸後期の陶工。
  2. [ 一 ] ( 初代 ) 名、光重。号、松風亭。京都粟田口に窯を開く。元文四~文化元年(一七三九‐一八〇四
  3. [ 二 ] ( 二代 ) 名、光時。窯を清水に移し京焼の和陶の伝統を受け継ぎ、雲錦手(うんきんで)を完成。青木木米、永楽保全と並び幕末三大名工の一人とうたわれ、仁和寺伏見宮から仁の字を賜わって仁阿彌と称した。隠居後、伏見桃山で焼いたものを桃山焼という。歴代道八のなかで特に名高い。天明三~安政二年(一七八三‐一八五五
  4. [ 三 ] ( 三代 ) 名、光英。号、華中亭。青花・白磁の類にすぐれ、のち肥前有田で製陶法の指導に当たった。文化七~明治一二年(一八一〇‐七九

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高橋道八」の解説

高橋道八(2代) たかはし-どうはち

1783-1855 江戸時代後期の陶工。
天明3年生まれ。初代高橋道八の次男。陶法を父や宝山文蔵に,磁器奥田穎川(えいせん)らにまなぶ。父の没後家業をつぎ,粟田口から五条坂にうつる。和風京焼にすぐれ,紀伊(きい)偕楽園焼ほか各地の陶窯で指導した。安政2年5月26日死去。73歳。名は光時。号は仁阿弥,華中亭など。

高橋道八(3代) たかはし-どうはち

1811-1879 江戸後期-明治時代の陶工。
文化8年生まれ。2代高橋道八の長男。父とともに讃岐(さぬき)高松藩から讃窯にまねかれる。明治2年肥前佐賀藩にまねかれて有田磁器を指導した。明治12年8月2日死去。69歳。名は光英。号は華中亭。

高橋道八(4代) たかはし-どうはち

1845-1897 幕末-明治時代の陶工。
弘化(こうか)2年5月生まれ。家伝釉薬(ゆうやく)を改良,染付磁器,彫刻,白磁などを得意とし,内外博覧会で受賞をかさねた。明治30年7月26日死去。53歳。名は光頼。号は華中亭。

高橋道八(初代) たかはし-どうはち

1749-1804 江戸時代中期-後期の陶工。
寛延2年生まれ。伊勢(いせ)(三重県)の人。宝暦年間に京都にでて,三条粟田口に窯をひらいた。文化元年4月26日死去。56歳。名は光重。通称は周平。号は松風亭空仲(中)。

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改訂新版 世界大百科事典 「高橋道八」の意味・わかりやすい解説

高橋道八 (たかはしどうはち)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高橋道八」の意味・わかりやすい解説

高橋道八
たかはしどうはち

道八

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世界大百科事典(旧版)内の高橋道八の言及

【仁阿弥道八】より

…江戸後期の京焼陶工。京の粟田口焼の陶工初代高橋道八(1742‐1804)の次男で,名は光時といい,2代道八を襲名。松風亭,華中亭とも号したが,醍醐三宝院宮から阿弥号を,仁和寺宮から〈仁〉の字と法橋(ほつきよう)位を与えられ,1825年(文政8)以降,法橋仁阿弥を称した。…

※「高橋道八」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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