江戸中期の陶工。京焼中興の祖といわれる。中国(明)からの帰化人穎川氏の後裔といわれ,質商丸屋を営む奥田家に養子となり,旧姓穎川を号した。名は庸徳,通称茂右衛門。建仁寺の南,大黒町五条上ルに居住し,当時流行した南画や煎茶を中心とする中華趣味に触発され,天明年間(1781-89)ころから製陶を志したらしい。京焼で初めて本格的な磁器焼造を手がけ,中国の交趾,古染付,古赤絵,呉須赤絵などの写しにすぐれ,とくに呉須赤絵写しは得意で,粗末な白磁胎に鮮やかな赤や緑で豪放な絵付けを施す作品は,中国のものをもしのいでいる。器種は向付,皿,鉢,台鉢,火入れ,香合,香炉,水指,花生けなど茶陶が中心で,無銘の作品が多いが,赤絵や染付で〈穎川〉〈庸〉〈陸方山〉などの銘を記したものがある。門下には青木木米,仁阿弥道八,欽古堂亀祐,三文字屋嘉助などがおり,京焼後期の黄金期の基を築いた。
執筆者:河原 正彦
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江戸後期の京都の陶工。初めて京都で磁器を創始したために京焼の磁祖とよばれる。本名は穎川庸徳(つねのり)といい、号の穎川はこの本姓に由来する。祖先は明(みん)末の動乱を避けて帰化した中国人と伝え、奥田姓は養子先の姓。彼は京都五条坂大黒町の質商丸屋に養子に入って家業を継ぐかたわら、作陶に進んだ文人陶工であった。ときに30歳前後のことと推測される。窯は建仁寺(けんにんじ)にあり、この寺に寄寓(きぐう)して作陶したと江戸末の画師田能村竹田(たのむらちくでん)は『竹田荘師画録』に記している。それを裏づけるように同寺には三彩兕觥(どこう)、その塔頭(たっちゅう)大中院には染付水指(そめつけみずさし)、赤絵火入(ひいれ)などの磁器の製品が所蔵されている。穎川がどこから磁器の製法を学んだか不詳であるが、この時期は各地で有田(ありた)の磁器窯が移植されているところから、その動向をいち早く先取りしたといえよう。ただ伊万里(いまり)焼とは異なり、江戸後期の趣味人の間で人気の高い、中国明末期の古染付、呉須(ごす)赤絵をおもに写したのは、やはり京都ならではの作風の選択といえよう。
[矢部良明]
(伊藤嘉章)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…初期の京焼は,これら仁清の御室焼や古清水,乾山の雅陶などによって特徴づけられ,瀟洒(しようしや)な造形感覚,典雅な絵付や意匠によって最初の黄金期をむかえた。 その後,製陶の中心は東山山麓の清水,五条坂地域へ移り,19世紀初頭の文化・文政期には,奥田穎川や青木木米らによって本格的な磁器が焼造され,当時流行の中華趣味,煎茶趣味ともあいまって,中国風な青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流をなしていった。なかでも穎川による呉須赤絵写しや古染付写しなどは,本格的な京焼における磁器焼造の初期の作例として注目される。…
※「奥田穎川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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