魚介類を一般業者に卸売りする魚市場のある河岸(かし)をいい、全国各地にみられる。江戸時代から1923年(大正12)まで日本橋付近にあった魚市場(日本橋魚河岸)、および1935年(昭和10)から2018年(平成30)まで東京都中央区築地(つきじ)にあった中央卸売市場(築地市場)水産物部の通称でもある。江戸に幕府が開かれた当初、魚類は現在の芝浦一帯の地域で売買され雑喉場(ざこば)といったが、品川沖でとれた魚類はとくに新鮮であったので、江戸の前の海でとれた魚、すなわち江戸前の芝肴(しばざかな)として珍重された。魚河岸は元来、摂津より来住した漁師たちが、幕府に納める魚類の残余を、市中一般に販売したのに始まるといわれる。その後、徳川家康は江戸の繁栄策として、郷藩三河(みかわ)の出身者にも魚類販売の利権を与えた。日本橋北詰から荒布(あらめ)橋に至る河岸一帯に市場を設けて、各地から入荷する魚介類のうちの優れたものはすべて公儀御用としてこの市場で扱わせたので、河岸の隆昌(りゅうしょう)は日を追って盛んになり、日本橋界隈(かいわい)は魚介専門の店やこれに関連する店などで大商店街を形成した。また、生鮮食料品を扱うところから敏捷(びんしょう)な動作が要求されて、人々の気風もおのずから荒々しくなり、生き物に通ずる意気と気っぷのよさを誇る魚河岸特有の気質を生んで、歯切れのよい早口の日常会話から「江戸前の啖呵(たんか)」などということばも生じた。
日本橋の魚河岸は明治時代以後も隆盛を極めたが、1923年(大正12)の関東大地震により600戸を超す卸売店、仲買店が焼失したので、芝浦埋立地に仮設の臨時市場を設け、同年12月築地に移転した。仮営業・調整の時期を経て、1935年2月に「東京市中央卸売市場」として本格業務を開始、都内消費量の大半を取り扱った。2018年10月には、施設の老朽化・過密化などの理由により江東区豊洲(とよす)に移転した。
[佐藤農人 2019年6月18日]
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…前者の成立については諸説ありつまびらかでないが,1590年(天正18)の徳川家康の入城後,三河人にこの辺で魚の専売を許したのにはじまるとか,同じころ摂津西成村,大和田村の漁夫30余名がここに来住し,幕府膳所用魚の余分を売りさばいたのにはじまるとかいわれる。今も日本橋川に沿ったあたりを魚河岸(うおがし)と称している。後者は豊臣秀吉の築城後靱町(東区伏見町)に定められたのにはじまり,1618年(元和4)上魚屋町に移転,のち鷺町に移って西海の魚荷を集めた。…
…一般には,小売ではなく卸売の取引を行う魚市場を指している。うおしじょう,さかないち,魚河岸,五十集(いさば)などともよばれる。水産物はこの魚市場を基軸に流通しているが,漁獲物の水揚げを行う漁港には産地市場が,都市消費地には消費地市場がそれぞれ独自の流通機能をもって段階的に分立していることが,他の生鮮食料品流通と異なる特徴である。…
※「魚河岸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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