鮎川村(読み)あゆかわむら

日本歴史地名大系 「鮎川村」の解説

鮎川村
あゆかわむら

[現在地名]茨木市鮎川一―五丁目・白川しらかわ一―三丁目・学園南がくえんみなみ町・橋の内はしのうち三丁目

橋之内はしのうち村の南東、東のたま川と西の安威あい川に挟まれた村で、江戸時代には島上しまかみ郡鮎川村と島下しましも郡鮎川村とに分れていた。俗に「あいかわ」ともいい、村名は安威川の訛ったものとも考えられる。中世島上・島下いずれの郡に属したかは不明。文和元年(一三五二)二月一八日の総持寺領散在田畠目録(常称寺文書)に「字北垣内参段 鮎川村内 鮎川庄 修理田 平範行寄進」とある。嘉吉元年(一四四一)一二月日付溝杭信幸譲状(石清水文書)溝杭みぞくい村のうち一一条・一二条間の散在名田畑として「寺門鮎川村」「玉川原壱段鮎川村」がみえ、また「妙法寺々領田畠分」として「寺門肆段鮎川村」と記されており、室町時代に溝杭氏の勢力が及んでいたとみられる。


鮎川村
あゆかわむら

[現在地名]大塔村鮎川、上富田かみとんだ下鮎川しもあいかわ

北は北郡ほくそぎ(現中辺路町)、西はいち(現上富田町)に接し、東は和田わだ村の小名西俣にしのまた水呑みずのみ峠と太尾ふどんとおノ嶺を結ぶ尾根で境される。村の西部を西南流する富田川と、西流する支流愛賀あいが(現内井川)とに沿って開かれた村で、富田川に沿い熊野街道中辺路が通じる。村名仮名付帳(真砂家蔵)は「あいが」とし、「続風土記」に「鮎川は合川の義にして小名愛賀川の流岩田川と合流するより起れり」と記される。「岩田川」は富田川のことである。


鮎川村
あいかわむら

[現在地名]相生町鮎川

やなうえ村の那賀川対岸、同川支流の谷内たにうち川下流域に位置する。集落は丘陵の南裾に東西に形成され、わずかな平地を挟んで南も丘陵地。中世は延野のぶの郷に含まれた。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図、正保国絵図相川村とみえ、高七〇八石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方五五四石余・畠方一五三石余、「芝山」「はへ山」の添書がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳には鮎川村とあり、一六石余が蔵入分。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)にも鮎川村と記され、人数一九九(男九五・女一〇〇・僧二・山伏二)


鮎川村
あゆがわむら

[現在地名]藤岡市鮎川

鮎川が西境を北流し、東は藤岡町、南は東平井ひがしひらい村、北は上大塚かみおおづか村と接する。ほぼ中央を古鎌倉街道が南北に抜け、道沿いの単立寺院光厳こうごん寺には嘉元三年(一三〇五)銘・応安元年(一三六八)銘の板碑がある。文明一八年(一四八六)富岡周辺を訪れた聖護院道興は、「廻国雑記」に「あひ川、かみ長川などさまざまの名所を行々て」と記す。元亀三年(一五七二)一〇月九日、「高山隠居分鮎川・比野」以下一〇〇貫文の地が小幡民部助に与えられた(「武田信玄定書」小幡文書)。寛永二年(一六二五)「相川村」三六石余は加藤伊織に与えられる(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方九五石八斗余・畑方四四八石三斗余で、幕府領・前橋藩領・旗本加藤・渡辺領の四給。


鮎川村
あゆかわむら

[現在地名]上富田下鮎川しもあいかわ大塔おおとう鮎川あゆかわ

鮎川村(大塔村)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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