出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都新宿区若葉2~3丁目と南元町付近の旧称。汐留川最上流部の谷底に当たり,江戸初期まではこの付近まで潮の干満の影響がみられた。地名の由来は鮫がここまで来たからとも,雨(さめ)が降ると橋が必要になる場所のため,などの説がある。徳川家康の入国前にすでに江戸に住んでいた四谷鮫河橋仲町ほか5ヵ町の名主の記録(〈文政町方書上〉)は,先祖は初めは喰違辺にいたが,江戸城拡張工事のたびに7回も移転を命じられ,鮫河橋に落ち着いたと述べている。この谷は城と元赤坂の紀州藩邸で断ち切られ,農業にも交通にも不便な土地となった。旧町名の元鮫河橋仲町,同表町,同南町,同北町,同八軒町,同陽光寺門前などが同じ谷筋に並び,周囲は伊賀組,鉄砲組,弓組などの同心組屋敷となった。隣接の谷筋は41軒の寺地にされ,四谷寺町,四谷南寺町と呼ばれた。寺の大部分はもとからの住民と同様,1634年(寛永11)の江戸城外郭工事により,郭内に取り込まれた麴町方面から移されたものである。したがって鮫河橋5ヵ町は,町とはいえ,周囲の下級家人の生活物資の需給と,墓参者に対する休息所,生花販売などで生計を立てた地区で,多分に農村的色彩を残していた。
明治になって,この地区は急速に全国から集中した労務者の集住地区になった。同時期に東京に成立した幾つかの労務者街に比べ,道路・橋梁工事の労務者,市内の重要な交通機関であった人力車の車夫などの多いのが一つの特徴であった。その後も低所得都市住民の集住地という特色を持ち続けたが,第2次大戦後静かな住宅街になった。旧紀伊家上屋敷(現,迎賓館)の西側の坂は現在も鮫河橋坂(紀伊国坂)と呼ばれ,付近には東宮御所,学習院初等科,南元町公園のほか,マンションや会社寮が多い。
執筆者:鈴木 理生
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