鳥羽城下(読み)とばじようか

日本歴史地名大系 「鳥羽城下」の解説

鳥羽城下
とばじようか

[現在地名]鳥羽市鳥羽一―四丁目・池上いけがみ

鳥羽城下町安楽あら(現在は干拓で陸続き)坂手さかて島・小浜おはまの小突出に囲まれた鳥羽湾の西岸ノ山(一六〇メートル)以東にある。町の前面は波静かな湾入をなして船舶の停泊に絶好である。海岸はリアス式で良港をなすが平地を欠くため、城下は海岸に沿って一筋の街村をなし、鳥羽城とは海水をたたえた堀を隔てて位置している。室町以前の鳥羽は樋ノ山・日和ひより山・しろ山に囲まれた入江に臨んだ小空間に成立したもので、大里おおさと小里こさとの二郷からなっていた(光明寺古文書)。「鳥羽旧記」では町を流れる妙慶みようけい川が、「志陽略誌」には妙慶川に架かるあい橋が、それぞれ志摩国と伊勢国の国境であったことを記している。

城主九鬼氏は代々紀伊国牟婁むろ九木くき(現尾鷲市)に居住していた。勢力を伸ばすとともに北上し、嘉隆は天文一一年(一五四二)波切なきり(現志摩郡大王町)で生れている。波切の九鬼氏のほか当時志摩には多くの土豪が割拠していた。彼らは会盟してたがいに侵略しなかったが、嘉隆のみはこの盟を破ることが多かったので諸豪の攻撃を受けて敗れ、尾張に逃げた。永禄一二年(一五六九)織田信長の伊勢国司北畠氏攻略の際の功で志摩での回復を認められ、各土豪を攻略し志摩一円の領主となった。関ヶ原の役で父嘉隆は西軍に、守隆は東軍に属し父子相戦うことになった。嘉隆は死し、守隆が藩主となった。守隆の長子良隆は病弱のため弟久隆に藩主を譲ったが、久隆の兄隆季が還俗して嫡庶を競ったため幕府の裁決で久隆は摂津三田さんだ(現兵庫県三田市)へ、隆季は丹波綾部あやべ(現京都府)に移された(志陽略誌)

城下町となって町が整備され、武家屋敷は城の北側の山沿いの岩崎いわさき(現鳥羽一丁目)奥谷おくたに(現鳥羽四丁目)にあり、岩崎では町人町との境は本町口ほんまちぐち門で区画され、城郭とは岩崎口大手門の大橋で結ばれていた。町人町は西側の街道に沿って成立し、本町・大里町(現鳥羽二丁目)よこ町・中之なかの(現鳥羽三丁目)藤之ふじの(現鳥羽四丁目)のいわゆる鳥羽五町からなっていた。本町と大里町は両町とよばれ古くからの基盤のうえに立つ町であるが、三町といわれた横町・中之郷・藤之郷は近世に発達した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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