鹿野村(読み)かのむら

日本歴史地名大系 「鹿野村」の解説

鹿野村
かのむら

[現在地名]珠洲市野々江町ののえまち

飯田いいだ町の東、若山わかやま川左岸に立地し、東の本江寺ぼんこうじ村とは複雑な入会関係にある。鹿野は飯田郷加納の転じたものとみる説がある。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「叶」とあり、遊佐孫六の知行地であった。貞享二年(一六八五)の加能越里正由緒記(金沢大学蔵)にみえる鹿野浜の合戦は、天正七年(一五七九)八月頃、畠山旧臣の温井景隆と上杉方の能登目代鰺坂長実が結び、正院川尻しよういんかわしり城に拠る長景連との間に行われた戦闘で、景連は越後へ敗走した(「長家譜」など)。慶長四年(一五九九)閏三月の前田利家画賛像(妙珠寺蔵)に「飯田村郷内賀野村」とある。初期扶持百姓の恒方の屋敷が山麓の谷間にあるように集落の大半は山裾にあったと考えられ、製塩の進展に伴い海岸部に移り、飯田郷の浜の意から郷浜ごうはまとも称された。恒方とともに「能登名跡志」にみえる友末家は、越中阿尾あお(現富山県氷見市)城主菊池氏の家来筋とあり、菊池姓を名乗っている。


鹿野村
かのむら

[現在地名]小野市鹿野町

土橋つちはし村の西に位置し、加古川左岸の標高約三〇―五〇メートルの河岸段丘面に立地する。東部には鹿野かのはら台地が広がる。鎌倉時代から室町時代には大部おおべ庄に含まれ、推定庄域の中央北寄りに位置する。現鹿野町内の小字のなかに秋長あきなが・鹿野ヶ原がある。秋長(秋永)は文永四年(一二六七)の大部庄早田損亡坪付注進状(東大寺文書)に名地名としてみえ、名主屋敷の存在を示す地名とされる。鹿野ヶ原は建久三年(一一九二)九月二七日の造東大寺大勧進重源下文案(浄土寺文書)や、同八年六月一五日の重源譲状案(東大寺文書)にみえる鹿野原の地域にあてられてきたが、こちらは庄の北東字とされ、重源が開拓し浄土寺が建てられた地域と同一視できない。


鹿野村
かのむら

[現在地名]久美浜町字鹿野

久美浜湾の東に広がる古砂丘の海岸段丘の北端部に、東部の裏山を背にして集落をつくる。佐濃谷さのだに川下流の沖積平野を挟んで、北の砂丘、北西の葛野かずらの村と向い合う。

鹿野村はもと函石浜はこいしはまのオンゴノ(シバコともいう)に居住していたものが、しだいに移住したとの伝承をもつ(熊野郡誌)

中世は丹後国田数帳にみえる鹿野庄の地と推測される。


鹿野村
かのむら

[現在地名]海津町鹿野

内野うちの村の東にあり、南東は鹿野一色かのいしき村。「新撰美濃志」は康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」にみえる「山下孫三郎殿、尾州賀野東方段銭」七五〇文を当村のこととするが、つまびらかでない。天正一〇年(一五八二)一二月晦日の吉村氏吉宛織田信雄宛行状(吉村文書)裏書に新知分として「かの」とみえ、同一一年九月一日の織田信雄宛行状(同文書)には一四ヵ所三千貫余のうちに「かの」とある。


鹿野村
しかのむら

[現在地名]河原町本鹿ほんが

曳田ひけた川の南岸、簗瀬やなせ山の山麓に位置し、対岸は中井なかい村。西は本角ほんずみ村、南は山を越えて独活うど(宇戸谷)水根みずね村。拝領高一二一石余、本免五ツ一分。深田氏の給地であった(給人所付帳)。「因幡志」では家数七。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一三三石余、竈数一三(うち新屋敷一)。藪役五匁六分・川役二斗を課されていた(藩史)。元文五年(一七四〇)当村と水根村との間に草山をめぐる争論が起こり、見分の結果南北の境は従来どおりとされたが、新規に「ついじの上谷通」に堀切を造成して境とする裁許が下された(在方諸事控)


鹿野村
かのむら

[現在地名]大野町加納かのう 鹿野しかの定松さだまつ

五之里ごのり村の南西、揖斐川左岸に立地する。近世初期は加納村としてみえ、貞松とも書く定松村は当村の内。中世は延暦寺領の平野ひらの庄の内であったと伝え、加納は同庄にかかわるというがつまびらかではない。天正二〇年(一五九二)一月一一日の一柳直盛知行目録(国会図書館蔵)に加納貞松村五四八石余とあるが、ただし本巣もとす郡内に属している。慶長郷帳に村名がみえ、高五四八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では田四六六石余・畑八二石余のうち大垣藩領四二五石余・旗本西尾盛教領一二三石。元禄郷帳でも同相給。明治の村明細帳によれば加納村・鹿野村・定松村に分れている。


鹿野村
しかのむら

[現在地名]大飯町鹿野

佐分利さぶり川の南、篠谷ささだに村と相対する。「若狭郡県志」は「鹿野村属佐分利郷、去小浜四里半許也、有西条、石倉等之名」と記す。正保郷帳によれば田方三二一石余・畠方五一石余。文化四年(一八〇七)の戸数三二・人口一六三(雲浜鑑)。字宮下みやしたに八幡神社がある。祭神は応神天皇。文亀二年(一五〇二)の勧請と伝える。字村中むらなかにある曹洞宗仏燈ぶつとう寺は、本尊聖観音。「若州管内社寺由緒記」鹿野村の項には「禅宗京相国寺末慶正庵開基は長志しはと申妙古大姉と申候、于今木像有之、開基の年号知れ不申候」とあり、仏燈寺の名はみえない。


鹿野村
かのむら

[現在地名]竜北町鹿野

天保一〇年(一八三九)一一月、鹿島かしま開・新地しんち村の海辺に堤防を築いて干拓した新地で、鹿島尻新地という。野津手永惣庄屋槌田勇助幸俊が藩命によって築造したもので、その顛末を同地の竜神社の石祠に幸俊が願主となって、次のように刻んでいる。「奉勧請 八大竜王 新開安全 天保次戊戌冬十月、余再奉 公命、為野津県正太夫、竹内君窃示余白、鹿島新墾之役、県政之所急、吾子其勉諸、其挙将勃興、方此時、松橋之役以後先、而鹿墾姑息矣、明年正月、余屡請官、告以失信於県民、至春三月、蒙官命、祀海于鹿島祀、夏六月下旬、新築決矣、時在初、赴短日、加以怒潮之候、竹木之蓄、土石之漕亦不労乎、冬十一月二十有二日遂築潮磧一百二十間、及堤防二千六百十有余間、皆是衆力之所致、亦将海神、分土、而福我国家非耶、其歴代不知神崇之哉」。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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