黒井城跡(読み)くろいじようあと

日本歴史地名大系 「黒井城跡」の解説

黒井城跡
くろいじようあと

[現在地名]春日町黒井

春日盆地のほぼ中央にそびえるしろ(三五六・八メートル)山頂に位置する。比高二二〇メートルで別名猪の口いのくち山ともよばれる。城域は周囲の尾根筋にも及び、内藤氏の八木やぎ(現京都府八木町)、波多野氏の八上やかみ(現篠山市)とともに丹波三大山城の一つといわれ、国指定史跡。

建武二年(一三三五)赤松貞範春日部かすかべ庄を与えられた際(嘉吉記)、当城を築いたというが確証はない。ただ黒井城北麓にある現市島いちじま白毫びやくごう寺の貞治四年(一三六五)一一月銘の宝篋印塔に貞範の法名(世貞)が刻まれており、近隣に在住した可能性はある。以後春日部庄黒井村は貞範の子孫である赤松春日部家が地頭職を所持した(文明二年六月二日「足利義政御判御教書」赤松春日部文書など)。戦国期に入ると荻野氏が本格的に春日盆地周辺を勢力下におさめた。天文二三年(一五五四)赤井氏から荻野氏の猶子になった直正は荻野秋清を殺害し、黒井城主となったという(赤井伝記)。以後直正は氷上郡をはじめ丹波北部に勢力を振るい始めた。そのため永禄七―八年(一五六四―六五)丹波守護代内藤宗勝と対立し、天田あまた(現京都府)周辺で激しい戦闘が繰広げられた(正月七日・九月一九日「内藤宗勝書状」夜久文書ほか)。同八年八月宗勝は「奥郡荻野悪右衛(脱アルカ)尉於手前」で敗死したという(八月五日「大覚寺門跡義俊副状」上杉家文書)。この頃氷上郡は軍事的緊張にさらされ、黒井城は大規模に拡張されたと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「黒井城跡」の解説

くろいじょうあと【黒井城跡】


兵庫県丹波市春日町にある城郭跡。標高356mの猪ノ口山の尾根沿いに広がっており、中世末期、西丹波の盟主であった赤井(荻野)氏の居城跡で、織田信長の丹波攻略の際には明智光秀の2度にわたる攻撃に最後まで抵抗した城。1579年(天正7)に光秀によって落城するが、代わって光秀の重臣・斎藤利三は麓の居館である下館(現在の興禅寺)に入った。1584年(天正12)の小牧長久手の戦いでは赤井氏が再度、黒井城にこもって徳川家康に呼応したが、これを最後に黒井城は廃城になった。山頂の主郭は東西約170m、南北40mに、東郭、三の丸、本丸、二の丸、西郭を連郭式に並べ、南面には3~4mの野積みの石垣を築造。周囲約9kmに及ぶ山系のいたるところに、出丸、太鼓の段、石踏の段と呼ばれる多数の郭群を配置。山頂から延びる尾根の先端には北方に千丈寺砦、東方に竜ヶ鼻砦と百間馬場、南方には的場砦を配しており、全山を要塞化したことがよくわかる。中世戦国時代の典型的な山城遺構であり、織豊期の歴史を理解するうえで貴重な遺跡であることから、1989年(平成1)に国の史跡に指定された。JR福知山線黒井駅から徒歩約1時間。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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