黒部村(読み)くろべむら

日本歴史地名大系 「黒部村」の解説

黒部村
くろべむら

[現在地名]栗山村黒部

土呂部どろぶ村の南、馬老ばろう山の南側に位置し、鬼怒川と同川支流土呂部川が合流する地点沖積台地(標高約七〇〇メートル)上に立地する。近世はおおむね日光領。寛文六年(一六六六)日光領総検地により、畑・屋敷のみ反別一四町一反余、高三六石余が確定したものと思われる(「日光御領石高家数人別掃除丁場控」関根矢太郎文書)。なお村高は元禄郷帳・天保郷帳とも九七石余で、土呂部村分六〇石余を含めたかたちで記載されている。しかし旧高旧領取調帳では両村が記され、高三六石余。一方、年貢割付状・皆済目録(山本伝一郎文書)などは、日光目代山口氏や日光奉行所から当村および土呂部村のそれぞれに差出されている。年貢は定免金納で、近世期を通して金四両余。


黒部村
くろべむら

[現在地名]弥栄町字黒部

小金おがね山の西麓に位置し、間人たいざ街道が村内を南北に貫通し野間のま村への入口でもある。集落の西側は竹野川沿いに水田が開ける。

中世は石清水いわしみず八幡宮(現八幡市)黒戸くろべ庄の地とされる。中世末の丹後国御檀家帳には、

<資料は省略されています>

とあって、松田氏一族は天正一〇年(一五八二)頃一色氏の部将で黒部城にいた松田摂津守の祖か一族であろう。

慶長検地郷村帳では高一二〇二・五六石「黒部村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高で一千五八一石余となる(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領として推移したが、寛文六―九年(一六六六―六九)、延宝八―九年の間、および享保二年(一七一七)以後は幕府領であった。


黒部村
くろべむら

[現在地名]高山村高井たかい

北は樋沢ひざわ川引水のおもい川等で高井野、西南は奈良なろう山・紫禰萩しねはぎ山の稜線で高井野、東は樋沢川・奈良山北面の沢でまきと境する。紫禰萩山北麓に集落黒部がある。

慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳の「五拾三石六斗四升九合 黒部村」が初見。なお同九年の信州四郡草山年貢帳に、「黒部村、壱石草山」とある。


黒部村
くろべむら

[現在地名]西山町黒部

北は長嶺ながみね村、東は鬼王おによ村・坂田さかた村、南は新保しんぼ村、西は和田わだ村に囲まれた別山べつやま川左岸の平地。元和二年(一六一六)椎谷藩領、天和元年(一六八一)から幕府領、貞享二年(一六八五)から高田藩領、宝永二年(一七〇五)から与板藩領、文政元年(一八一八)より上山藩領。正保国絵図に高五三石余。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高五三石七斗余。


黒部村
くろべむら

[現在地名]浅井町黒部

竜安寺りようあんじ村の南東に位置。西部に灌漑用溜池の黒部池がある。寛永石高帳に村名がみえ、高一六三石余。領主の変遷は村に同じ。嘉永二年(一八四九)中山道柏原かしわばら宿(現坂田郡山東町)加助郷となった(東浅井郡志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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