日本歴史地名大系 「龍ケ崎市」の解説 龍ケ崎市りゆうがさきし 面積:七四・四七平方キロ県の南部にあり、北端を小野(おの)川、西端を小貝(こかい)川が流れ、北西部には牛久(うしく)沼がある。北部と南西部は標高二〇―三〇メートルの洪積台地で、古くから人々の居住地であり、両台地に挟まれた低地は鬼怒(きぬ)川・小貝川などの堆積によるもので、広大な稲敷(いなしき)郡の穀倉地帯に続いている。北は稲敷郡牛久町、東は同郡江戸崎町・新利根村、南は同郡河内(かわち)村・北相馬郡利根町、西は北相馬郡藤代(ふじしろ)町・稲敷郡茎崎(くきざき)村に接する。〔原始〕遺跡は北部の台地と南西部の台地に多く、先土器時代の沖餅(おきもち)遺跡(若柴町)、縄文時代の住居跡・貝塚などが若柴(わかしば)・羽原(はばら)・大塚(おおつか)・板橋(いたばし)・北方(きたかた)の各町などにみられる。弥生時代の遺跡は数は少ないが外八代(そとやしろ)遺跡(八代町)が知られる。古墳は小野川流域に大塚古墳群(大塚町)などがあり、「常陸国風土記」逸文に載る黒坂命を葬ったと伝える花見(はなみ)塚もあった(新編常陸国誌)。台地南部には奈戸岡(などおか)古墳群(馴馬町)・長峰(ながみね)古墳群(長峰町)などがあり、古代の船着場との関連も想定されている。〔古代・中世〕「新編常陸国誌」によれば、古代には市域の大部分が信太(しだ)郡に属したとされるが、信太庄の各種史料に残存する郷名の分布からみて、ほとんどは河内(かつち)郡、一部は信太郡に属したとする見解が有力になっている(茨城県史料)。また市域南西の一部は下総国に属していた。下総から常陸に入る経路に小貝(鬼怒)川を渡って奈戸岡(現馴馬町)に至る海路もあり、当地域は交通の要所であった。弘安大田文に河内郡として「羽原一丁九段大」「鷲栖一丁七段」とあり、両地は市域に入っていたと思われる。南北朝争乱期の興国二年(一三四一)南朝方の拠った高井(たかい)城(現貝原塚町)・馴馬(なれうま)城(現馴馬町)が北朝方の手で落城し、同五年に春日顕国が馴馬城で再起を図ったが、北朝方の宍戸朝里らに攻め落されている(「鶴岡社務記録」鶴岡八幡宮蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「龍ケ崎市」の意味・わかりやすい解説 龍ケ崎〔市〕りゅうがさき 茨城県南部,牛久沼の東にある市。 1954年龍ケ崎町が馴柴 (なれしば) ,大宮,八原 (やわら) ,長戸,川原代 (かわらしろ) ,北文間 (きたもんま) の6村を編入して市制。 55年高須村の一部を編入。北部は関東ローム層の台地,南部は沖積低地から成る。江戸時代には仙台藩伊達氏の飛地藩領。水田地帯が広く,野菜も産する。古くは龍ケ崎木綿の集散地として有名。機械,食品などの工場もある。台地上に大規模なニュータウンが建設され,首都圏への通勤圏となっている。 JR常磐線,関東鉄道,国道6号線が通る。面積 78.59km2。人口 7万6420(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by