オールコック(読み)おーるこっく(英語表記)Sir John Rutherford Alcock

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オールコック」の意味・わかりやすい解説

オールコック
おーるこっく
Sir John Rutherford Alcock
(1809―1897)

幕末の駐日英国外交官。5月(日不明)ロンドン郊外イーリングに生まれる。外科医師となり、1832年から4年間英国軍医として各地に勤務、のち極東に関心を抱き、1844年清(しん)国に渡り、福州領事上海(シャンハイ)領事を歴任。1858年12月21日駐日総領事に任命され、1859年6月26日(安政6年5月26日)江戸高輪(たかなわ)東禅寺に着任、同年12月1日(11月8日)駐日特命全権公使に昇格、列国公使の対日外交の主導的地位を占めた。1861年7月(文久元年5月)の第1回東禅寺事件など攘夷(じょうい)運動につき幕府にその制圧を求める一方、幕府の開市開港延期提案には同意し遣欧使節の派遣を勧告した。1862年3月(文久2年2月)賜暇帰国、1864年3月2日(文久4年1月24日)帰任、この年列国艦隊を率いて攘夷派の拠点長州を総攻撃したが、外相ジョン・ラッセルの承認が得られず12月24日(元治元年11月26日)解任され帰国した。1865年4月から1871年7月まで清国駐在特命全権公使を務め、退官帰国後は医事、文化、植民の業務に従い、1897年11月2日、ロンドンで死去した。日本見聞記に『The Capital of the Tycoon』(New York, 1863)がある。

金井 圓]

『山口光朔訳『大君の都――幕末日本滞在記』(岩波文庫)』

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朝日日本歴史人物事典 「オールコック」の解説

オールコック

没年:1897.11.2(1897.11.2)
生年:1809.5
幕末のイギリスの外交官。ロンドンの近郊イーリングに医師の子として生まれる。ウエストミンスター病院と王立ウエストミンスター眼科病院に学生として入学。1825年パリに行き,解剖学,化学,博物学を学ぶ。一方でフランス語やイタリア語を修得し,文学や芸術に強く目覚めた。帰国後,住み込み医師として働き,32年,ロイヤル・カレッジから外科医の免許を受けるや,ポルトガル,スペインでイギリス軍派遣部隊の軍医として38年まで従軍した。翌39年王立内科・外科協会の会員となり,サイデンハム・カレッジの外科学講師を務め,42年には内務省の解剖検査官をも務めたが,イベリア半島従軍時代の後遺症である両手親指の麻痺症状が出る。これは外科医としては致命的であった。44年,外務省の中国在勤領事の募集に応じて合格,福州の初代領事に転身した。同年11月から翌年3月まで厦門領事,46年上海領事,55年広東領事を歴任。58年12月21日,初代の駐日総領事に任命された。安政6年5月26日(1859年6月26日),江戸湾に来航し着任,11月には公使に昇任した。文久2(1862)年春,一時帰国。元治1(1864)年3月帰任し,下関事件の解決に貢献した。11月26日召還命令に従い帰国。イギリスの対日政策の基礎を形作る一方で,『日本語文法』,『日本語会話』,『大君の都』(山口光朔訳,1962)を書く。65年清国公使,69年帰国した。<参考文献>A.Michie《TheEnglishmaninChinadur‐ ing the Victorian Era.》,増田毅『幕末期の英国人』

(内海孝)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「オールコック」の意味・わかりやすい解説

オールコック
Rutherford Alcock
生没年:1809-97

幕末期の駐日イギリス公使。まず医師として出発したが,1844年に中国の福州領事に任命されたのを皮切りに外交畑に転じ,その後上海,広東の領事をへて,58年(安政5)に初代の駐日総領事となり,翌年江戸に着任,また同年初代の公使に昇格した。滞日中の活動のうち,もっとも記憶に残るのは,64年(元治1)の夏,日本の全支配層に攘夷の不可能なことを徹底させるべく,フランス,アメリカ,オランダの3国の代表と語らい,四国連合艦隊による下関遠征を組織し,攘夷の先駆けをもって任じる長州藩を武力によって屈服させたことであろう。しかし,イギリス政府は最初これを喜ばず,そのためオールコックは本国に召還されたが,まもなく下関遠征が承認され,つづいて駐清公使に任命されて,65年から71年までこの職を務めた。日本関係の著述のうち,とくに《大君の都The Capital of the Tycoon》(1863)は,幕末期日本についての古典的な観察記録である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オールコック」の意味・わかりやすい解説

オールコック
Alcock, Sir John Rutherford

[生]1809.5. ロンドン
[没]1897.11.2. ウェストミンスター
イギリスの初代駐日全権大使。初め外科医を志し,軍医として従軍,のち極東に関心をもち,1843年清国に渡り,各地領事を歴任。関税行政を改革し,アロー号事件 (→アロー戦争 ) で武力政策をとる。 59年6月,開国直後の日本に赴任。攘夷派浪士の襲撃 (→東禅寺事件 ) や条約批准の延引など,困難な対日政局に対処して列国使臣団に指導的地位を占めた。 64年,攘夷派の拠点長州に対し,列国艦隊を率いて総攻撃を加え,事態の打開に成功したが,本国政府の承認を得ていなかったので解任され,まもなく駐清全権公使となった。著書『大君の都』 The Capital of the Tycoon (2巻,1863) は有名である。

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百科事典マイペディア 「オールコック」の意味・わかりやすい解説

オールコック

英国の外交官。1858年,英国の初代駐日総領事となる。米国公使ハリスの帰国後は在日各国外交団の指導権を握る。1864年四国連合艦隊の下関砲撃を実行し幕府の貿易制限の撤廃に成功。外相ラッセルと意見が相違して召喚される。1865年―1871年駐清公使。著書に幕末期日本についての古典的な観察記録《大君(タイクーン)の都》がある。
→関連項目ロシア軍艦対馬占領事件ロッシュ

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「オールコック」の解説

オールコック
Rutherford Alcock

1809.5.-~97.11.2

イギリスの外交官。福州・上海・広東の領事をへて,1858年(安政5)11月初代駐日総領事に就任,翌年5月江戸へ着任した。第1次東禅寺事件ではあやうく難をのがれた。11月公使に昇進,駐日外交団のリーダーとなる。62年(文久2)賜暇で帰国中,外相と遣欧使節竹内保徳(やすのり)との間の開市開港の延期を認めるロンドン覚書調印を斡旋し,64年(元治元)1月帰任した。萩藩の下関海峡封鎖,幕府の横浜鎖港提議などに対抗し,四国連合艦隊下関砲撃を遂行して萩藩を屈服させ,幕府に生糸貿易の制限を解除させた。11月下関遠征につき本国政府から召還され帰国。65年清国公使に転任。著書「大君(たいくん)の都」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「オールコック」の解説

オールコック
Sir Rutherford Alcock

1809〜97
幕末のイギリス人外交官
初め中国に駐在。1858年駐日総領事として来日。翌年公使となり駐日外交団の主導権を握り,横浜開港にあたり貨幣交換問題・外人殺傷事件などにつき幕府に強硬態度をとった。'62年帰国し,幕府と本国のロンドン覚書調印を仲介,同年再び来日。四国連合艦隊による下関砲撃(➡ 四国艦隊下関砲撃事件)を首唱して活躍した。著書に『大君の都』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「オールコック」の解説

オールコック Alcock, Sir John Rutherford

1809-1897 イギリスの外交官。
1809年5月生まれ。はじめ外科医,34歳で外交官となる。安政6年(1859)初代駐日公使。東禅寺事件で水戸浪士におそわれるが,難をまぬかれた。元治(げんじ)元年四国艦隊下関砲撃を主導したため,本国に召還された。1897年11月2日死去。88歳。イーリング出身。著作に「大君(たいくん)の都」。

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世界大百科事典(旧版)内のオールコックの言及

【馬関戦争】より

…また貿易も衰退し,生糸貿易は64年6月には事実上の停止状態にあった。ヨーロッパ列強の先頭に立ったイギリス公使オールコックは,列強の軍事力の圧倒的優位を示し,また貿易をとり戻すために,フランス,アメリカ,オランダを軍事行動に合意させた。イギリスのキューパー提督を総指揮官とする艦隊は,イギリス9隻,フランス3隻,オランダ4隻,アメリカ1隻を集め,総艦数17隻,砲288門,兵員5014名に達し,64年8月2日夜,豊後水道北の姫島沖に集結した。…

【ロシア軍艦対馬占領事件】より

…その間幕府は箱館奉行村垣範正を通じロシア領事ゴシケビチに退去交渉を行い,8月ビリリョフらは芋崎を退いた。一方,イギリスは前年対馬全島の測量をし,この事件に際しても公使オールコックが幕府に協力を申し出,7月には軍艦2隻を派遣してビリリョフに抗議するなど強く干渉した。これは列国の東アジア進出により対馬の戦略的位置が高まったためで,この事件はその端的な現れである。…

※「オールコック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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