フランスのドゴール体制を揺るがした1968年の危機。3月にパリ大校舎が左翼学生に占拠され、5月にはパリ中心部カルティエラタンに集結した学生が警官隊と衝突。連帯した労働者も全土でストを展開した。権威主義的な大学当局や特権的な経営層など「旧体制」への不満が背景にあり、大学や工場の自主管理を訴えて世界に影響を与えた。
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1968年5月,フランスで学生たちの運動を中心にして起こった社会的危機をさす。1960年代後半,ベトナムへのアメリカの介入に反対し,ベトナム人民への支持を訴える活動が大学生を中心につづけられ,全国ベトナム委員会などの組織を生んで広がっていた。一方,1967年秋のフーシェ改革と呼ばれる大学の管理強化への学生の反発が高まり,それらが相重なって,11月のパリ大学ナンテール校舎の学生のストライキをきっかけに,パリやナントで学生たちの闘争が起こった。68年3月ナンテールで学生は警察の介入等に抗議して校舎の一部を占拠,〈3月22日運動〉の名で,ベトナム戦争批判,大学の変革,さらに現代資本主義社会批判のための討議と闘争を呼びかけた。この運動はパリ大学の本拠ソルボンヌをはじめ各所に波及,5月3日,ソルボンヌで集会中の学生を警察が排除し衝突が起こったのを転機に,既成の運動の枠をこえた学生層の総反乱という様相を呈するにいたる。大学占拠,街頭進出は爆発的に拡大,地方にも波及し,10日にはパリの学生街カルティエ・ラタンは数万の学生であふれ,バリケードが築かれ,警官隊と激しく衝突した。この動きに応じ,13日,労働組合の24時間ゼネストとデモが行われ,ソルボンヌもまた学生により占拠された。さらに以後,ナントの航空機製造工場のストライキを皮切りに,国営放送局や各地のルノー工場その他諸企業で労働者のストライキや工場占拠が組合指導部の意をこえて自発的に拡大,継続され,未曾有(みぞう)の様相を示した。この危機のさなか,29日ド・ゴール大統領は突然姿を隠したが,翌30日ラジオで演説,議会を解散し事態を選挙によって収拾する方向を明らかにした。また,ド・ゴール大統領は労働組合指導部との交渉によって妥協をはかる一方,国営放送局を軍隊によって確保(6月3日),学生の〈極左〉とみなされる組織の解散(12日)やソルボンヌ,オデオン座などの学生占拠の排除により事態の沈静化をはかった。国民議会の選挙は6月23日と30日に行われ,ド・ゴール派の共和国擁護同盟(UDR)が圧勝,こうしてド・ゴールの第五共和政は成立以来最大の危機をのりこえたかにみえた。しかし翌69年4月,ド・ゴールは地方改革と上院改組をめざす国民投票で敗れて大統領を辞任,11年間近い政権の座から去った。
68年5月の危機は,直接的にはナンテールの運動のきっかけとなった大学の現代社会への適応のあり方や,第五共和政下に追求された産業構造の高度化と成長経済のひずみが,ベトナム戦争による世界的な危機状況に触発されて噴出したものといえるが,国際的にもこの時期アメリカや西ドイツ,日本などの諸国において共通した状況が生まれており,現代社会の矛盾を露呈させるものとなった。人々の消費生活が拡大し,高度化された社会管理のシステムが日常生活に浸透する一方,これまで従属状況におかれていた〈第三世界〉の自立を求める動きがこの高度成長社会に衝撃を与えつつあったなかで,〈異議申立て(コンテスタシヨン)〉を基点とした学生たちの運動は,既成の政党や労働組合の枠内や旧来のイデオロギーによっては表現されなかったエネルギーを噴出させ,〈五月〉以後もとくにこれまで顧みられることの少なかった社会的少数者や弱者とされていた者の発言と結びつき,これまでの社会の発展のあり方に根本的な反省がうながされるなど,現代の問題状況にとっても大きな転換点となった。
執筆者:加藤 晴康
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1968年5月から6月にかけて、学生の反乱に端を発し全国的示威行動やゼネストへと発展、ドゴール体制=第五共和政を揺るがせたフランスの社会危機。
1月のカーン大学や3月22日のパリ大学ナンテール校舎での大学紛争を発火点とし、5月2日から13日にかけてパリ大学のソルボンヌ校舎とナンテール校舎を中心に、コーン・ベンディットらの指導者を得て高揚した学生運動は、政府・警察権力から激しい弾圧を被った。こうした政府の措置に憤激した各地の高校生や青年労働者がこの運動に参加し、山猫ストと工場占拠が頻発した。また労働総同盟(CGT)やフランス民主労働総同盟(CFDT)、全国教育連盟(FEN)などが5月13日のアルジェリア反乱10周年記念日に抗議のゼネストと大規模なデモを行い、この日以降、学生運動は労働運動との結び付きを深めた。翌14日からストライキが本格的に労働現場を席巻(せっけん)し、ルノー自動車工場や国営鉄道をはじめ、マスコミ、金融機関に至るまで拡大化し、ゼネストの様相を呈した。こうした内乱寸前の危機を収拾するために、政府は労使の代表をよんで、賃金の大幅引上げや社会保障ならびに労組の権利の改善・向上を約束したグルネル協約accords de Grenelleを5月27日に締結したが、運動を鎮静することができず、ドゴール大統領は5月30日に議会を解散して信を問うた。新しい議会を選ぶ総選挙は6月23~30日に施行されて与党の圧勝に終わり、極左的学生運動を支持した統一社会党(PSU)はすべての議席を失った。与党は485議席中358議席を占め、そのうち294議席はドゴール派が獲得し、運動は下火になった。しかし、極左的運動を恐れてフランス国民の世論は一時的に保守化したとはいえ、この「五月革命」によってドゴール体制の根底が覆されて、後のミッテラン社会党政権への布石となった。
[横山謙一]
『D・コーン・ベンディット他著、海老坂武訳『学生革命』(1968・人文書院)』▽『Alain TouraineLe communisme topique (1968, Seuil)』
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…これらの学生組織は,多くが日本にブントが誕生したのと同じころ,反ファシズムや民族解放,人種差別撤廃問題などを理念として結成され,それが中国文化大革命の影響や旧態依然とした大学制度への不満,さらにベトナム戦争への反戦,平和の運動として拡大していった。1967年11月〈教育制度の改革〉を掲げたパリ大学ナンテール分校学生のストライキがベトナム反戦,ド・ゴール体制打倒のたたかいと呼応して,68年5月10日カルティエ・ラタンでの警官隊との大衝突でピークを迎えたフランスの五月革命,カリフォルニア大学バークリー分校での学生反乱を筆頭にアメリカ中の大学を席巻したベトナム反戦,大学制度改革を主張したアメリカの〈スチューデント・パワー〉を中心に,世界各国で大学紛争が巻き起こった。 だが,この〈ニュー・レフト〉〈スチューデント・パワー〉のヨーロッパ,アメリカ,日本を覆った嵐も,73年のベトナム戦争の終息とともに,一つの目的を達したかっこうで急速に沈静化し,各国とも全国的な学生組織が分裂,あるいはその実態を失った。…
…またある調査によれば,フランス人の12%は,知識人の態度表明によって選挙の際の投票を左右されるという。作家レジス・ドブレはこうした現象を〈知識人権力〉として批判しているが,1968年の五月革命も,この文化の制度化と知識人権力に対する異議申立てという側面をもっていた。文化が社会の中で占める位置はいぜんとして高いが,制度をとおした知識の伝達・習得としての文化という概念が,生活の中からの自己表現という文化の概念としのぎを削っているところに,1968年以後のフランス文化の位置がある。…
※「五月革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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