江戸中期京都画壇を代表する画家の一人。名は汝鈞(じよきん),字は景和。若冲のほか,斗米庵,米斗翁の号がある。京都錦小路の青物問屋の長男に生まれ,家業のかたわら,狩野派に学ぶが,その粉本主義に不満をもち,宋・元画に直接近づいた。40歳で家業を弟に譲り,生涯妻子を持たず絵画制作に専心,濃彩の花鳥画と水墨画に異色の画風を作りあげた。この時代には,本草学の流行にみられる実証主義的な風潮を背景に,円山応挙のような写生主義を唱える画家が生まれた。数十羽の鶏を飼って形状を写しとったという逸話が若冲にもあり,身のまわりの動・植物をモティーフにした作品が多い。しかし,写生を重視する平明な表現を標榜した応挙と比べると,同じく事物の具体性をよりどころとしながらも,若冲画の場合には対象の形態と緻密な細部描写とが想像力にみちた主観性の強い画面に再構成され,独自の空間表現と装飾効果が求められている。若冲の創作態度は,当時流行した設色稠密(ちゆうみつ)な沈南蘋(しんなんぴん)(沈銓)の花鳥画よりも,若冲が熱中したと伝えられる明代を中心にした中国絵画の模写に啓示を受けている。濃彩の花鳥画の代表作には若冲が京都相国寺に寄進した《動植綵絵(どうしよくさいえ)》(1757-66)と《仙人掌群鶏図襖(サボテンぐんけいずふすま)》(1790)がある。水墨画には軽妙でユーモラスな作品が多いが,画箋紙に墨がにじむ性質を巧みに利用しており,こうした高度な技法が生む表現効果には,濃彩の作品に通じるマチエールの画家としての側面がうかがえる。水墨画の代表作に《鹿苑寺大書院障壁画》(1759)がある。また,拓版画は日本版画史上に特異な位置を占める。天明の大火(1788)に遭って窮乏し,晩年は深草の石峯寺の傍らに隠棲した。同寺には若冲の意匠になると伝えられる石像群がある。
執筆者:鈴木 廣之
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江戸中・後期の画家。京都・高倉錦(にしき)小路の青物問屋「桝源(ますげん)」の長男として生まれる。本名源左衛門、名は汝鈞(じょきん)、字(あざな)は景和、若冲居士のほか、斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)と号した。幼少のころから絵を好み、初め狩野(かのう)派の画家(一説に大岡春卜(しゅんぼく)(1680―1763))に学び、春教と名のったと伝える。やがて中国宋(そう)・元(げん)・明(みん)の花鳥画を数多く模写してその写実力に感嘆、また日本の琳派(りんぱ)に装飾画の本質をうかがうなど、和漢の絵画伝統の研鑽(けんさん)を重ねた。その結果、即物写生の重要性を認識し、身近な動植物の写生に努めて、迫真的なあまりに一種幻想的ですらある独得の花鳥画の世界を創造してみせた。とくに鶏の絵を得意とし、米1斗の代でだれにも気軽に描き与えたという。代表作に『動植綵絵(どうしょくさいえ)』30幅(宮内庁、国宝)、『仙人掌群鶏図襖絵(さぼてんぐんけいずふすまえ)』(豊中(とよなか)市・西福寺)がある。
[小林 忠]
『辻惟雄著『若冲』(1974・美術出版社)』
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