江戸初期、会津藩加藤氏の御家騒動。1627年(寛永4)伊予松山から会津40万石の城主となった加藤嘉明(よしあき)は、1631年に没し、その子明成(あきなり)が封を継いだ。明成は、1639年若松城の大改築をはじめ領内鉱山の開発などに尽力したが、参勤交代、江戸城手伝普請(てつだいぶしん)などで出費がかさんで藩財政は極度に逼迫(ひっぱく)した。これが農民に過酷な迷い高と称する年貢賦課となり、寛永(かんえい)の飢饉(ききん)では領外に逃散(ちょうさん)する者2000人にも及んだ。また、明成は、父嘉明が小姓から取り立てた重臣堀主水(もんど)とことごとく対立、主水の家来と他の家臣の従者との間の争論が発端となって、明成は理を非として、主水の家来を罰し、これを訴えた主水に対して役職、金の采配(さいはい)を取り上げた。1639年主水は一族300人余を率いて会津を出奔、高野山(こうやさん)に逃れ、一時紀伊藩に隠れたのち江戸へ出て大目付に訴え出たが、1641年幕府は、主に逆らうものとして主水に死を命じた。1643年に至り、明成自ら会津40万石を返上し会津加藤氏は取潰(とりつぶ)しとなった。
[誉田 宏]
『会津若松史出版委員会編『会津若松史 2』(1981・国書刊行会)』
17世紀中ごろに会津加藤家で起きた御家騒動。1639年(寛永16)4月加藤明成の重臣堀主水は妻子一族従者300余人を率い,会津を出奔して高野山を頼ったが,翌年紀州徳川領をへて江戸に走り,明成の会津城修築,関所設置のことなどを幕府に訴えた。41年幕府は,挙兵出奔などによって君臣の礼を失し国家の大法を乱したかどで主水とその弟多賀井又八郎・真鍋小兵衛を明成に賜り,処断させた。騒動の直接の原因は,明成の父嘉明に重用されて諸士の司の職と支城猪苗代城とを与えられた主水と,父の死後41歳で藩主となった明成との対立にあり,武家諸法度に違反して1639年3月から明成が強行した会津若松城修築をめぐって,両者の緊張が極限に達したためとみられる。43年明成は会津40万石を幕府に返上したが,その動機としては飢饉による領内支配の動揺に加えて若松城修築とこの騒動が考えられる。
執筆者:小林 清治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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