(西山克)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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…旧国名。勢州。現在の三重県東部。
【古代】
東海道に属する大国(《延喜式》)。国名は,〈伊勢国風土記〉逸文に,伊勢津彦が国土を献じ,風を起こし波に乗って東方に去ったので,神武天皇の命により国神の名をとって命名したという説話がある。〈神風の〉という伊勢の枕詞もこれによる。国府は現,鈴鹿市国府町にあった。桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ∥あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。…
…鎌倉・室町時代の公家。三国司家の一つ。村上源氏。源通親の孫中院雅家が北畠氏を称し,その曾孫親房のとき,後醍醐天皇の信任をうけ,南朝の重鎮として活躍。さらにその三男顕能は1338年(延元3∥暦応1)閏7月初めて伊勢国司に就任し,以後戦国最末年に至るまでその拠城となった一志郡多気城に拠った。2代顕信は顕能の兄にあたる。彼は伊勢国司に関する基本文献,斎藤拙堂の《伊勢国司記略》には触れられていないが,残存史料から見てその在職は確実である。…
…これが後南朝で,その主となったのは多く後村上天皇の皇子説成親王(上野宮)の子孫であった。しかしその勢力は微弱で,14年(応永21)伊勢の北畠満雅が後亀山上皇の招きに応じて挙兵したことはあったが,28年(正長1)満雅が再度の挙兵で敗死してからはまったく無力となり,その後の後南朝側の動きとしては,43年(嘉吉3)将軍義勝夭逝の隙に乗じて禁裏に夜討ちをかけ神器を奪取した事件,44年(文安1)の説成親王の子円満院宮円胤の紀州における挙兵などが目につく程度で,ほとんど見るべきものはない。67年の応仁の乱以後は大覚寺統の皇胤はあらわれなくなり,後南朝は自然消滅の途をたどった。…
※「北畠満雅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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