デジタル大辞泉
「唐人お吉」の意味・読み・例文・類語
とうじん‐おきち〔タウジン‐〕【唐人お吉】
[1841~1890]伊豆下田の船大工の娘。安政4年(1857)下田奉行所のはからいで、下田に滞在中のアメリカ総領事ハリスのもとに看護婦として送られたが、実際は妾であったという。のち自殺。
十一谷義三郎の長編小説。副題「らしゃめん創世記」。の悲劇を実話に基づき描いた作品で、昭和3年(1928)「中央公論」誌に掲載。昭和4年(1929)単行本刊行。その翌年には溝口健二監督により映画化された。続編に「時の敗者唐人お吉」がある。
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とうじん‐おきちタウジン‥【唐人お吉】
- 江戸後期伊豆(静岡県)下田の船大工の娘。本名斎藤きち。安政四年(一八五七)アメリカの駐日総領事ハリスの妾となった。のち、身をもちくずして投身自殺。これを題材に十一谷義三郎が小説「唐人お吉」を書くなど、多くの作品がつくられている。天保一二~明治二三年(一八四一‐九〇)
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唐人お吉
とうじんおきち
(?―1890)
幕末・維新期の婦人。伊豆国(静岡県)下田(しもだ)坂下町の船大工市兵衛(いちべえ)の後家きわの娘きち。唐人お吉はのちのあだ名。下田港に出入りする船頭の洗濯などで母子の暮らしをたてていた。1857年(安政4)、下田玉泉寺(ぎょくせんじ)に滞在していたアメリカ総領事ハリスから看護人を要求された下田奉行(ぶぎょう)は、おりからの日米修好通商条約の折衝の難航を嫌って、ハリスには「きち」を、通訳官のヒュースケンには「ふく」を看病人の名目で差し出した。きちがハリスにお目見えしたのは同年5月22日であるが、彼女は腫(は)れ物ができていたため3日(数日ともいう)で帰され、全快しても、こんどはハリスが病気ということで、ふたたび玉泉寺に入ることはなかった。きちには、支度金25両、給金月10両が与えられている。ハリスのもとを退いた(暇(いとま)手当金18両)のち、きちは船頭たちからも疎んぜられ、暮らしにも困るようになったという。68年(明治1)横浜で大工の鶴松(つるまつ)と同棲、71年下田に戻って髪結いを始めたが、やがて三島に移り、82年また下田で小料理屋安直楼を開いたが、乱酔の果てに破産・落魄(らくはく)し、90年3月23日入水(じゅすい)して果てた(50歳という)。のちにそこを「お吉が淵(ふち)」という。なお、これに基づいて十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう)の小説『唐人お吉』など数多くの作品がつくられている。墓は下田市宝福寺。
[進士慶幹]
『吉田常吉著『唐人お吉』(中公新書)』
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唐人お吉 (とうじんおきち)
生没年:1841-90(天保12-明治23)
伊豆下田の芸者,アメリカ領事の妾。伝記は後世の伝聞収集により組み立てられたもので,虚実は判じがたいが,船大工市兵衛の次女に生まれ,14歳で芸者となり,新内節を得意としたという。船大工鶴松と二世を契ったが幕府役人により仲をさかれ,アメリカ領事T.ハリスの妾となった。明治初年,鶴松と旧情をあたため同居したが,世人の嘲笑により乱酔に憂さをはらし,のち別居,貸座敷などを営んだが,病苦と貧窮の晩年を送り,稲生沢川に投身自殺をとげた。没後お吉への同情の風潮がたかまり,村松春水らによる史実研究や伝聞収集が行われた。十一谷義三郎(じゆういちやぎさぶろう)著の小説《唐人お吉》(1928),《時の敗者唐人お吉》(1929)が発表され,開国期の一女性の悲劇を掘り下げた点が注目される。さらに真山青果に《唐人お吉》(1930),《唐人お吉と攘夷群》(1931),山本有三に《女人哀詞》(1930)の戯曲があり,それぞれ舞台化され好評であった。
執筆者:小池 章太郎
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唐人お吉
没年:明治23.3.27(1890)
生年:天保12.11.10(1841.12.22)
幕末のアメリカ駐日総領事ハリスの侍妾。本名斎藤きち。尾張国(愛知県)生まれ。舟大工市兵衛ときわの子。一家で伊豆下田へ移住。父の死後,船頭相手の洗濯女・酌婦となる。安政4(1857)年下田奉行の命で総領事館(玉泉寺)に滞在中のハリスの看護婦名目の侍妾となるが,吉の腫物を理由に3夜で解雇される。以後「唐人お吉」と差別され,もとの仕事もたちゆかなくなる。横浜で大工鶴松と一時同棲後,下田に戻り髪結や小料理屋経営などをするが,酒癖のために失敗。不遇の晩年を送り,稲生沢川で投身自殺。この時期外国人の侍妾となった女性はほかにもいたが,吉は十一谷義三郎の小説『唐人お吉』(1928)以後有名となる。<参考文献>吉田常吉『唐人お吉』
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唐人お吉【とうじんおきち】
単にお吉とも。幕末,伊豆(いず)下田芸者。伝記については判然としない点も多いが,尾張(おわり)国の船大工の娘という。1857年アメリカ総領事ハリスの看護のため玉泉寺に送られ,その妾となる。明治初年船大工鶴松と同居したがのち別居,晩年は不遇で稲生沢(いのうざわ)川に投身自殺した。没後はお吉への同情も高まった。十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう)の小説《唐人お吉》(1928年)で有名になり,映画・芝居などに脚色。
→関連項目下田[市]
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唐人お吉
とうじんおきち
[生]?
[没]1890.3.23. 下田
幕末,アメリカの初代駐日総領事 T.ハリスの侍女。下田在船大工の娘。安政4 (1857) 年下田玉泉寺駐在のハリスに看護の名目で下田奉行から派遣された。条約交渉にのぞむハリスの態度を軟化させようとする幕府の政略でもあったが,病気もちの理由でまもなく帰された。当時の世相のもとでは好奇の目をもってみられ,料理屋,髪結いなどをして生計を立てたものの世間に入れられず自殺した。その生涯は小説,演劇などに取上げられている。
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唐人お吉 とうじん-おきち
1841-1890 幕末-明治時代の女性。
天保(てんぽう)12年11月10日生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の船大工の娘。のち一家で伊豆(いず)下田にうつる。安政4年下田奉行の命により,看護婦の名目でアメリカ総領事ハリスのもとに侍妾として派遣されるが,病気を理由に3日で解雇される。世間から好奇の目でみられ,すさんだ生活の果て病気となり,明治23年3月27日投身自殺。50歳。本名は斎藤きち。
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唐人お吉
1930年公開の日本映画。監督:溝口健二、原作:十一谷義三郎による同名小説、脚本:畑本秋一、撮影:横田達之。出演:山本嘉一、梅村蓉子、島耕二、滝花久子、浦辺粂子ほか。
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世界大百科事典(旧版)内の唐人お吉の言及
【十一谷義三郎】より
…1924年には[新感覚派]の機関誌《文芸時代》の同人に参加し,のちにその知性と敗残への共感が融合された《仕立屋マリ子の半生》(1928),《あの道この道》(1929)などを出した。その才能が十分に開花すべき対象を,幕末の下田芸者お吉のくずれ行く生涯に求め,時代と運命にもてあそばれる女性悲劇を《唐人お吉》(1928‐31)に書いた。この作は時代考証に特色があり,耽美,頽唐,虚無の世界が鏡花風の文体に盛られている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」