幕末・維新期の婦人。伊豆国(静岡県)下田(しもだ)坂下町の船大工市兵衛(いちべえ)の後家きわの娘きち。唐人お吉はのちのあだ名。下田港に出入りする船頭の洗濯などで母子の暮らしをたてていた。1857年(安政4)、下田玉泉寺(ぎょくせんじ)に滞在していたアメリカ総領事ハリスから看護人を要求された下田奉行(ぶぎょう)は、おりからの日米修好通商条約の折衝の難航を嫌って、ハリスには「きち」を、通訳官のヒュースケンには「ふく」を看病人の名目で差し出した。きちがハリスにお目見えしたのは同年5月22日であるが、彼女は腫(は)れ物ができていたため3日(数日ともいう)で帰され、全快しても、こんどはハリスが病気ということで、ふたたび玉泉寺に入ることはなかった。きちには、支度金25両、給金月10両が与えられている。ハリスのもとを退いた(暇(いとま)手当金18両)のち、きちは船頭たちからも疎んぜられ、暮らしにも困るようになったという。68年(明治1)横浜で大工の鶴松(つるまつ)と同棲、71年下田に戻って髪結いを始めたが、やがて三島に移り、82年また下田で小料理屋安直楼を開いたが、乱酔の果てに破産・落魄(らくはく)し、90年3月23日入水(じゅすい)して果てた(50歳という)。のちにそこを「お吉が淵(ふち)」という。なお、これに基づいて十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう)の小説『唐人お吉』など数多くの作品がつくられている。墓は下田市宝福寺。
[進士慶幹]
『吉田常吉著『唐人お吉』(中公新書)』
伊豆下田の芸者,アメリカ領事の妾。伝記は後世の伝聞収集により組み立てられたもので,虚実は判じがたいが,船大工市兵衛の次女に生まれ,14歳で芸者となり,新内節を得意としたという。船大工鶴松と二世を契ったが幕府役人により仲をさかれ,アメリカ領事T.ハリスの妾となった。明治初年,鶴松と旧情をあたため同居したが,世人の嘲笑により乱酔に憂さをはらし,のち別居,貸座敷などを営んだが,病苦と貧窮の晩年を送り,稲生沢川に投身自殺をとげた。没後お吉への同情の風潮がたかまり,村松春水らによる史実研究や伝聞収集が行われた。十一谷義三郎(じゆういちやぎさぶろう)著の小説《唐人お吉》(1928),《時の敗者唐人お吉》(1929)が発表され,開国期の一女性の悲劇を掘り下げた点が注目される。さらに真山青果に《唐人お吉》(1930),《唐人お吉と攘夷群》(1931),山本有三に《女人哀詞》(1930)の戯曲があり,それぞれ舞台化され好評であった。
執筆者:小池 章太郎
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(横田則子)
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…1924年には新感覚派の機関誌《文芸時代》の同人に参加し,のちにその知性と敗残への共感が融合された《仕立屋マリ子の半生》(1928),《あの道この道》(1929)などを出した。その才能が十分に開花すべき対象を,幕末の下田芸者お吉のくずれ行く生涯に求め,時代と運命にもてあそばれる女性悲劇を《唐人お吉》(1928‐31)に書いた。この作は時代考証に特色があり,耽美,頽唐,虚無の世界が鏡花風の文体に盛られている。…
※「唐人お吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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