大蔵永常(読み)オオクラナガツネ

デジタル大辞泉 「大蔵永常」の意味・読み・例文・類語

おおくら‐ながつね〔おほくら‐〕【大蔵永常】

[1768~?]江戸後期の農学者。豊後ぶんごの人。通称、徳兵衛農業技術の指導と進歩に貢献した。著「農具便利論」「農家益」「広益国産考」など。

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精選版 日本国語大辞典 「大蔵永常」の意味・読み・例文・類語

おおくら‐ながつね【大蔵永常】

  1. 江戸後期の農学者。豊後の人。全国農村を歩いて見聞を広め、「農家益」「農具便利論」などの平明な農業指導書を著述。明和五年(一七六八)生。没年未詳

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大蔵永常」の意味・わかりやすい解説

大蔵永常
おおくらながつね
(1768―1857?)

江戸後期の農学者。豊後(ぶんご)国日田郡隈町(大分県日田市)生まれ。字(あざな)は孟純、通称を徳兵衛または亀太夫といい、亀翁と号した。祖父は優れたワタ栽培家で、屋号を「綿屋」とよび、綿作のみならず加工を行っていたとみられる。1778年(安永7)祖父の死去に伴い、綿作をやめ、父と彼は親戚(しんせき)の蝋晒(ろうさら)し工場で働いたらしい。向学心が強かったが、父から儒学勉強を止められ、農学研究をするようになった。20歳で故郷を出、九州各地を転々とし、29歳のとき大坂に出、その後7年間、各地の農作を調べ、また橋本宗吉(そうきち)について蘭学(らんがく)も学んだ。1802年(享和2)『農家益(のうかえき)』3巻を刊行、以後、没するまでに80冊あまりの農書を著した。1825年(文政8)江戸に出、その後、渡辺崋山(かざん)の推挙で三河田原藩に、また崋山の死後、水野忠邦(ただくに)の浜松藩に仕え、1847年(弘化4)以降江戸に住んだ。1856年(安政3)多くの友人が集まって彼の長寿(89歳)を祝ったが、以後消息不明である。彼の仕事の集大成『広益国産考』全8巻が出たのは1859年で、それを含め、彼の著作で出版されたものは27部69冊、未刊6部10冊である。それらを内容で分類すると次のようである。

(1)特用作物に関するもの 『農家益』『琉藺百方(りゅうりんひゃっぽう)』『甘蔗大成(かんしゃたいせい)』『綿圃要務(めんぽようむ)』『抄紙必用(しょうしひつよう)』『油菜録』『製葛録(せいかつろく)』『農稼業事』『門田之栄(かどたのさかえ)』『国産考』『広益国産考』
(2)稲作に関するもの 『老農茶話』『豊稼録』および同再板、『再種方(さいしゅほう)』『除蝗録(じょこうろく)』および同後編、『農稼肥培論(のうかひばいろん)』
(3)農具に関するもの 『農具便利論』
(4)生活に関するもの 『民家育草(みんかそだてぐさ)』『文章早引(ぶんしょうはやびき)大成』『田家茶話』『日用助食竈賑(かまどのにぎわい)』『徳用食鑑(しょくかがみ)』『農家心得草(こころえぐさ)』『食物能毒集』『勧善夜話(かんぜんやわ)』『山家薬方集』『救荒必覧』
 彼の書が特用作物に詳しく、すべて具体的であることは、育った環境と時代をよく反映している。

[福島要一]

『早川孝太郎著『大蔵永常』(1943・山岡書店)』『筑波常治著『大蔵永常』(1969・国土社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「大蔵永常」の意味・わかりやすい解説

大蔵永常 (おおくらながつね)
生没年:1768(明和5)-?

江戸後期の代表的農学者。通称は徳兵衛。豊後国日田の農家に生まれ,幼少にして学問に志したが,父に厳禁され,生蠟問屋に奉公に出た。20歳前後に出郷,九州各地を遍歴し,製糖・製紙・琉球藺(い)栽培などの技術を学んだ。1796年(寛政8)大坂に出,苗の取次商として畿内各地を回り,当時の先進的農業技術を見聞した。1825年(文政8)江戸に移ってのちは,農書の著述に専念し,合理的農業技術,とくに特用作物の栽培・加工技術の普及に努めた。渡辺崋山のすすめで34年(天保5)に三河田原藩の興産方となったが,蛮社の獄による崋山の国元蟄居と同時に解雇され,のち江戸に居住した。一説では60年(万延1)に没したともいうが,没年は不詳。《農家益》(1802),《農具便利論》(1822),《除蝗録》(1826),《綿圃要務》(1833),《広益国産考》(1859)など,未刊5種を含む35種の著作を残した。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「大蔵永常」の解説

大蔵永常

没年:万延1.12?(1860)
生年:明和5(1768)
江戸後期の農学者。豊後国(大分県)日田の生まれ。幼名は徳兵衛(十九兵衛),ほかに孟純,亀翁,亀太夫,日田喜太夫,受和園主人,黄葉園主人など多くの別名(筆名)がある。宮崎安貞,佐藤信淵と共に明治以前における「日本の三大農学者」といわれる。当時の農学者の多くは農民の出身で,少数が武士であり,特定の土地に定住して,イネを主題とする農書を著した。これに対して永常は日田の町家に生まれ,青年期に郷里を離れて各地を放浪する。長期間定住したのは大坂および江戸という大都市で,旅先での観察および聞き書きを素材に,三十余冊という多数の著作を著し,原稿料を主要な収入源にした。 天保5(1834)年に三河田原藩,弘化1(1844)年浜松藩に召し抱えられたが長続きせず,本領は自由な著述業者であった。イネにはさほど関心を向けず,収穫物を加工して市販する工芸作物を重視し,それらにより農家に現金収入を得させることこそ農民の暮らしを救う最良の手段という信念を貫いた。主な著作に『広益国産考』(1859),『農家益』(1802),『農具便利論』(1817),『除蝗録』(1812)などがある。没年には異説がある。<参考文献>早川孝太郎『大蔵永常』(『早川孝太郎全集』6巻),筑波常治『日本の農書』

(筑波常治)

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百科事典マイペディア 「大蔵永常」の意味・わかりやすい解説

大蔵永常【おおくらながつね】

江戸後期の農学者。豊後(ぶんご)国日田(ひた)の生れ。各地を遍歴,土地ごとに特色ある農業技術,特にハゼノキ,サトウキビなど特用作物に関心をもち,見聞した知識をもとに,《農家益》《除蝗(じょこう)録》《農具便利論》《広益国産考(こうえきこくさんこう)》など多数の書を著した。晩年渡辺崋山の推薦で三河(みかわ)国田原(たはら)藩興産方(こうさんかた)となったが,蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)に関連して解雇された。
→関連項目雁爪農書浜松藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大蔵永常」の解説

大蔵永常
おおくらながつね

1768~1860?

江戸時代の三大農学者の1人。豊後国日田郡隈町の商家兼業農家に生まれ,生蝋問屋に奉公。20歳の頃離郷し,九州各地を放浪。1796年(寛政8)大坂に出,苗木・農具取次商として畿内各地を回るうち,農民向けの参考書の必要を感じ,1802年(享和2)「農家益」を出版。25年(文政8)江戸に移り,農書の著述に専念しながら全国各地の取材と調査を行った。34年(天保5)渡辺崋山のすすめで三河国田原藩の興産方となるが,39年の蛮社の獄(ばんしゃのごく)にともない解雇。のち水野忠邦の遠江国浜松藩に一時仕えた。79歳で再び江戸に戻り,さらに大坂に移って著述に専念。「広益国産考」「農具便利論」「綿圃要務」「老農茶話」「油菜録」「製油録」など著書多数。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大蔵永常」の意味・わかりやすい解説

大蔵永常
おおくらながつね

[生]明和5(1768).豊後,日田
[没]?
江戸時代後期の農学者。通称は徳兵衛,字は孟純,別に亀翁,黄葉園主人などとも称した。代々農業兼商業を営む家に生れる。幼少より学を好んだ。天明の大飢饉を目撃,29歳のとき九州,四国を視察し大坂に出る。以後その生涯を農産製造技術の進歩改良に捧げる。彼の農書は原理追求よりむしろ平易簡明な実地指導書であった。 68歳のとき三河田原藩,78歳のとき浜松藩に招かれ農業技術指導にあたる。その後江戸に出て著作に専念したが,没年および終焉の地は不明。主著『農家益』 (1802) ,『農具便利論』 (17) 。その他の著作『老農茶話』『農家益後編』『再板豊稼録』『除蝗録』『製葛録』『油菜録』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大蔵永常」の解説

大蔵永常 おおくら-ながつね

1768-1861* 江戸時代後期の農学者。
明和5年生まれ。諸国をめぐって農政を研究し,おおくの農書をあらわす。三河(愛知県)田原藩,遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松藩の物産方となり,換金作物の栽培・販売を説いた。万延元年12月16日死去。93歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。字(あざな)は孟純。通称は亀太夫,徳兵衛。号は亀翁。著作に「広益国産考」「農具便利論」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大蔵永常」の解説

大蔵永常
おおくらながつね

1768〜?
江戸後期の農学者
豊後(大分県)の人。諸国をめぐり農業技術を研究。櫨 (はぜ) や甘蔗の栽培,製蠟・製糖技術などの改良・普及に貢献した。三河田原藩・遠江 (とおとうみ) 浜松藩の農事改良にも参与。商品作物の栽培,商品生産による農業改善を主張し,多くの農学者が水田耕作だけに関心を寄せていたことから脱却している点で異色であった。主著に『広益国産考』『農家益』『農具便利論』など。

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世界大百科事典(旧版)内の大蔵永常の言及

【経世済民論】より

…作為は天道実現に不可欠のもので,具体的には勤労であり,自愛即他愛の立場から自他ともに栄える道を説いた。ほぼ同時代の大蔵永常はリアルな農業技術者として,民に利を得させてはじめて為政者の利となることを主張し,尊徳の稲作中心の増強策に対し商品作物の栽培・加工を重視し,実践指導した。また大原幽学は1838年,日本における農業協同組合の先駆である先祖株組合を4ヵ村に結成させた。…

【広益国産考】より

…江戸後期の農書。著者は同時代の農学者大蔵永常。1859年(安政6)に全8巻が版行された。…

【除蝗録】より

大蔵永常が1826年(文政9)に刊行した農書。日本の凶作の原因が害虫とくにウンカの発生にあるとして,その駆除法を考察し,鯨油をまくことによる効用と使用法を説いた。…

【綿圃要務】より

…江戸後期の農書。大蔵永常著。1833年(天保4)刊。…

【ろうそく(蠟燭)】より

…前期には山城,越後,陸奥の諸国がろうそくの産地として知られたが,ろうそくの普及による需要の激増に伴い,江戸,大坂,京都などの大都市にはこれを取引するろうそく問屋ができ,また各地にろうそくあるいは生蠟の製造を行うものが現れた。当時,熱心にその普及につとめたのは農学者大蔵永常で,その著《農家益》にはハゼノキの栽培と製蠟法が詳しく述べられている。また鳥取,出雲,山口,宇和島の諸藩では,生蠟およびろうそくの専売を行って成功を収めたが,宝暦12年(1762)奥書の稲塚和右衛門《木実方(きのみかた)秘伝書》は,出雲藩木実方役所の創設当時の苦心経営の事情を伝えるものである。…

※「大蔵永常」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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