近代的農学が成立する以前の農業に関する書物をいう。主として農業技術をその内容とするが,農民の生活にかかわる万般にわたるものなどもある。農書の語は中国語に由来し,おそくとも南北朝時代にその例を見いだせる。
長い歴史と広大な面積を持ち,かつ著述を尊重する中国では農書の類もすこぶる多い。そのうえ農書の概念も昔から一定していない。王毓瑚(おういくこ)《中国農学書録》は従来の農書の類を,(1)総合的農書,(2)気象と農耕技術の関連を取り扱った農書,(3)各種専譜,(4)蚕桑専書,(5)獣医書籍,(6)野菜専著,(7)治蝗書,(8)農家月令書(いわゆる農事暦),(9)農家百科全書的農書,に分類している。天野元之助《中国古農書考》は約250種,王毓瑚の前書は約550種の書物の名をあげているが,その差の一因は農書の概念の違いによる。農業に関する記事は最初はむしろ政治の四時の基準を示す立場での,あるいは為政者の立場からの記録に見られ,《夏小正》や《呂氏春秋》十二紀,《礼記(らいき)》月令等は前者で,《呂氏春秋》士容篇,《管子》地員篇等は後者である。
いわゆる農書(農作物,栽培技術の心得を中心に書かれた書)の成立は漢代ごろからと思われ,《氾勝之書》《四民月令》をへて,北魏の《斉民要術》(賈思勰(かしきよう)撰)10巻が出現した。本書は中国古代農書の集大成と評され,多数の書物を引用して古農書復原に寄与する一方,現在の華北の畑作の原則をふまえ,後の農書の畑作技術の部分にほとんど引用されてその基礎をなしており,中国農書の白眉である。その後隋・唐ころから江南の水田地帯が中心になるに及んで南宋初期に陳旉(ちんふ)《農書》3巻が出た。本書は農業14編,畜牛・牛医3編,養蚕5編よりなり,特に農業編は江南における稲作農法のほぼ完成した姿を示し,小品ながら珠玉の農書である。しかし《斉民要術》,陳旉《農書》ともに畑作・水田の大略完成した技術を示していて,発達途上の農書の見られないことは研究上多少困ったことでもある。
次の元代は,異民族王朝のため逆に漢民族支配に意を用いたのか,官撰の《農桑輯要》7巻,王禎《農書》36巻,ウイグル人魯明善撰《農桑衣食撮要》2巻など上質の農書がでている。特に王禎《農書》は山東生れの彼が安徽,江西の地方官をした経歴を生かして南北農業を対比,総括して記している。さらに《農器図譜》16巻は初めての総合的な農具の図解で,在来農具のほとんどに及び,農史研究のうえに役立つことが多い。明代農書の代表的なものは徐光啓の《農政全書》60巻である。彼は礼部尚書(文武大臣)にまで昇った人であるが,西洋科学にも通じ,《農政全書》中に,〈泰西汞法(たいせいこうほう)〉2巻,〈荒政(飢饉対策)〉18巻の存することは,彼の経歴と学問的素養を背景にしたものである。本書は江戸時代の農書(例えば宮崎安貞《農業全書》)に,大きな影響を与えている。清朝の代表的農書は欽定《授時通考》78巻で,乾隆帝の勅命で編纂された大部のものであるが,それまでの農書の集大成で,便利であるが創意が乏しいといわれている。
以上はある程度の地域を対象にした農書であるが,明代ごろから地方郷紳の手になる地方的農書が出はじめた。河北宝坻を対象にした明の袁黄の《宝坻勧農書》5巻,浙江呉興の明末の《沈(しん)氏農書》,およびそれとセットする清の張履祥の《補農書》(浙江桐郷を対象)1巻,山西寿陽(陽泉市)に関する清の祁寯藻(きしゆんそう)の《馬首農言》1巻,陝西三原県の楊秀元の《農言著実》1巻などがあげられる。また特別の作品を対象にしたものに,清の陳世元《金薯伝習録》2巻(金薯とは甘薯のこと),直隷総督方観承《棉花図》1巻があり,農具専著には古くは唐の陸亀蒙の《耒耜経(らいしきよう)》が有名であり,近くは清の陳玉琪の《農具記》1巻がある。新しい農書では,ワグナー著,高山洋吉訳《中国農書》(1972)および天野元之助《中国農業史研究》増補版(1979)がある。
以下に中国農書の特色をあげてみよう。(1)危機の期間の産物である。《斉民要術》は北魏末の,異民族の支配下にあって華北の最も荒廃したときの産物。陳旉《農書》は金に華北が占領され,黄河平野の漢民族が大挙南下して江南の農業生産力を飛躍的に増加させる必要のできたとき,王禎《農書》はフビライの治世,元の全盛時代がすぎてハーン国の反乱などで国力の弱りはじめたとき,《農政全書》は北方の清を防ぐために莫大な軍費,糧食の要したとき,の作品である。(2)引用書が多い。古典尊重の中国ではどの分野の書籍でも引用が多いが,農書も例外ではなく王禎《農書》は約100種の,《農政全書》は250種近くの書を引用している。これはその書物自体が農史的性格をもつとともに,中国の農業が早くから一応のレベルに達していたことを意味する。(3)養蚕関係の書が多い。これは中国の中小農家が昼は耕し,夜は織して自給自足的経営をしていたからであろう。(4)地方官の手になる勧農的農書が多く原則論にとどまっているのが多い。
執筆者:米田 賢次郎
朝鮮の古農書の歴史は,大きく三つの時期に分けることができる。(1)李朝以前には朝鮮独自の農書がつくられず,もっぱら中国農書が用いられていた。中でももっとも広く流布したのが元代の《農桑輯要》で,高麗末期には重刊本が出されたほどであり,《斉民要術》や陳旉《農書》も輸入されていた。(2)李朝前期には従来の中国農書の単なる受容を脱却して,朝鮮独自の農法を体系化しようとする政策が追求されるにいたる。その結果,世宗の命により編纂されたのが《農事直説》(1430初刊)であり,また京畿道果川地方の農業の様相を記した《衿陽雑録》(姜希孟著,1492)であった。とくに前者は,水田直まき連作技術,畑作の2年三毛作などを集成し,以後の農書に大きな影響を与えた。(3)李朝後期には多数の農書が著された。16世紀末の日本軍の侵入で多くが失われてしまった《農事直説》の再普及を意図して,それに増補を加えた《農家集成》(申編,1655)を嚆矢(こうし)として,18世紀には水田農法を体系化した《山林経済》(洪万選著),商品作物栽培を多数収録した《増補山林経済》(柳重臨著),集約農法を体系化した《千一録》(禹夏永著)等が著された。19世紀前半の農書では《林園十六志》(徐有榘著),《農家月令歌》(丁学游著)が重要で,前者は従来の古農書類を集大成したものとして,後者は全文がハングルで書かれたものとして注目される。
以上のような朝鮮古農書の特徴としては,大多数が漢文で書かれたものであること,地方独自の農書があまり見られないことなどで,また同じく中国農業の圧倒的な影響下から出発しながらも,日本よりは2世紀も早く独自の農書が作られた点も注目される。19世紀後半になると,開化派系の人物によって《農政撮要》(鄭秉夏著),《農政新編》(安宗洙著),《農談》(李淙遠著)等の農書がつくられたが,内容的には日本の農書の翻案的なものが多い。
執筆者:宮嶋 博史
日本では最初の農書として《親民鑑月集》ともよばれる《清良記(せいりようき)》巻七(1629-54ころ)があげられる。戦国時代の伊予の土豪土居清良の軍記物語のなかの一巻で,多数の作物とその栽培法や栽培暦を記している。このほかに,江戸時代前期には三河の《百姓伝記》(1673-83),会津の《会津農書》(1683)や《会津歌農書》(1703),紀伊の《才蔵記(地方の聞書)》(1690年代)などがあり,各地方の農業の特色が詳しく記されている。1697年(元禄10)に版行された宮崎安貞の《農業全書》は,中国の《農政全書》の影響をうけつつも,元禄期の畿内を中心とした先進的農業地帯の多肥集約的技術を集大成した画期的な農書である。以後の農書に与えた影響は大きく,加賀の《耕稼春秋》(1707),対馬の《老農類語》(1722)など多くの農書にその影響がみられる。
農書は,技術普及を目的として版行され全国に広く流布した農書と,家業の繁栄や村の農業の発展を願って著者の農業体験・知識を記録した農書とに大別される。前者は学者や地方役人の手になり,《農業全書》や大蔵永常の多くの著作はその代表的なものである。後者は村役人や上層農民によって書かれ,《会津農書》,安芸の《家業考》(1764-72),河内の《家業伝》(1842-56)などのように,正確な観察・記録にもとづいた実践的な農書が多い。幕末期になると,稲作中心の農書にかわって,商品作物の栽培法や個別の技術を専門に扱った農書が現れる。大蔵永常の農書は多くがこの種のもので,《農具便利論》(1822),《除蝗録(じよこうろく)》(1828),《綿圃要務》(1833)などがある。また,この時期には全国的にも多数の農書があらわされるようになり,《農業全書》によって集大成された先進地域の農業技術が各地に普及しつつあったことが理解できる。幕末期までに達成された全国的な技術水準の向上が,明治以降の近代技術導入の下地をすでに準備していたともいえ,江戸時代の農書は,このようなわが国独自の農業技術の発展過程を知る史料として貴重である。近代農学の導入によって農書の影響力は薄れていったけれども,そのためにこれが果たした役割までも否定されるべきではない。
農書のなかには,単なる技術書にとどまらず,農民の生活信条や生産の基盤となる自然の観察について豊かな内容をもつものが少なくない。《百姓伝記》や《会津農書》,《農業自得》(1841)などに記された季節の推移や天候の変化に関する知識は,現在の読者にとっても興味深い内容である。農書を単なる過去の農業を知る史料とせずに,現代の農業にも通じる農民の記録として読むことは意義深いことである。《日本経済大典》《日本経済叢書》《日本農書全集》などに多くの農書が復刻・収録されている。
執筆者:田中 耕司
ヨーロッパにおいて最も古い農書はギリシアの農書であるが,現在は伝わっていない。次の時代のローマの農書は多く残っている。ウァロ,大カトー,コルメラ,とくにコルメラの農書は,その中でも最も完備したものである。これらは,いずれも二圃式農法を記述している。ヨーロッパの年雨量はだいたい600mmくらいだが,アルプス以北は夏雨型,以南は冬雨型である。すなわち南ヨーロッパは春から秋までほとんど雨がない。そこで冬作(小麦)と休閑とを毎年くりかえす。これが二圃式農法である。ローマが北ヨーロッパを支配した時代には,北ヨーロッパの農業はまだ焼畑段階にあったと思われる。そこにローマの文化とともに二圃式農法が伝えられた。ところが,北ヨーロッパは夏雨型で夏作が可能であるため,やがて冬作(小麦)→夏作(大麦)→休閑という三圃式農法(三圃制)がしだいに成立しはじめ,13世紀には北ヨーロッパ全体にほぼ支配的となる。このような二圃式から三圃式への移行に対応して北ヨーロッパの最初の農書,ヘンリーWalter de Henleyの書《Treatise of Husbandry》がイギリスで作られる。ヘンリーはおよそ1200-83年の人,カンタベリー聖堂に属する荘園の管理人で,二圃式よりも三圃式を推奨した。本書以後16世紀まで新しい農書の出現をみない。1523年にイギリスでフィッツハーバートAnthony Fitzherbert(1470-1538)の書《Boke of Husbandrie》が出版される。世界で最初の活字印刷による農書である。
普通,西洋史では,ルネサンスと宗教改革が近代の初めをなすと考えられているが,実際に思想的な革新が始まるのは17世紀以後である。農学の革新は,それに1世紀さきがける。フィッツハーバートの農書はみずから農業を行うヨーマン(上層農民)としての40年以上にわたる体験を記したものである。その特徴はレイ農法を記したことにある。当時のイギリスでは,毛織物工業の発達から羊毛,したがって牧羊が急速に発達し,そのため従来,麦のみを栽培していた耕地を,一定期間(普通6~7年)採草地にすることが行われた。これがレイ農法である。やがて,耕地にマメ科牧草(クローバー,ルーサン)が栽培されるようになる。このことを最初に記したのは,ドイツのヘレスバハConrad Heresbach(1496-1576)の書《Rei rusticae libri quattuor》(1570)であり,ドイツにおいて最初に活字印刷された農書である。本書は7年後にゴージュBarnabe Googe(1540-94)が英訳し,《Foure Bookes of Husbandrie》として出版された。しかし,実際にイギリスで耕地における牧草の栽培が始まるのは17世紀に入ってからであり,栽培牧草について記述した多くの農書が次々に刊行された。やがて18世紀になると,今度は,耕地における根菜飼料(カブ)の栽培がイギリスで開始され,農村社会の変革をともない農業生産力が急速に発達する(農業革命)。これにともないA.ヤングをはじめ多くの農学者が農業革命のための農書を刊行する。近代農学の成立であり,このような動向はやがてフランス,ドイツ,アメリカにおいても進展した。
執筆者:飯沼 二郎
西アジア・イスラム世界の農書kitābal-filāḥaは,他の自然科学と同様に,シリアやイラクに広まったヘレニズム文明の影響下に発達した。6世紀にはすでにギリシア語やラテン語の農書がシリア語に翻訳されていたが,イブン・ワフシーヤIbn Waḥshīya(10世紀初頭の人)はこれらの翻訳を基礎にアラビア語による最初の農書《ナバテア人の農業書》を著した。未刊行の写本によれば,この書は土壌の性質や灌漑方法の記述に始まり,続いて小麦・大麦,野菜,果樹などの栽培法が各論の形で述べられている。この記述様式はその後のアラブ農書に大きな影響を与え,カイロの著作家ワトワートWaṭwāṭ(1235-1318)は《ナバテア人の農業書》にエジプトの実情を加味して《考察の喜び》を著した。西方のアンダルスでも,トレドのイブン・バッサールlbn Baṣṣāl(?-1105)は,東方イスラム世界の農学を導入して《簡潔と弁明の書》を書き,同じころグラナダのティグナリーṬighnarīも《果樹園の美》と題する農書を著した。イブン・アルアッワームIbn al-`Awwām(12世紀半ばの人)の《農書》は最初にスペイン語訳された著作として名高いが,大半はイブン・ワフシーヤやイブン・バッサールの書の要約である。イランでは,16世紀初頭にカーシム・ハラウィーQāsim Harawīが《農業指南書》を執筆し,野菜や果樹の栽培法を詳しく解説した。トルコでは,16世紀末にイブン・アルアッワームの《農書》がトルコ語訳され,これに触発されてハッジ・イブラーヒームHajji Ibrāhīmが果樹栽培と園芸中心の農書《果樹園の輝き》を著した。
イスラム世界の農書は,農民が直接これを利用するために書かれたものではなく,在地で農業の監督や徴税の任に当たる官吏に体系的な農学の知識を提供することが執筆の主たる目的であった。またその執筆者も,農学者,医者,詩人などの知識人が中心であり,先に述べたような古典的な著作に各地の農業事情や10世紀以降に新しい商品作物として普及したサトウキビ,綿,稲などの栽培法を加味する形で構成されていることが特徴である。
執筆者:佐藤 次高
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
農業とくに農業技術に関する書をいうが、農民の生活全般にわたる内容のものもある。「農書」という場合に、日本の江戸時代に著されたものに限るという説があるが、人類が農耕を行うようになって以来その技術は伝承され、それに関する書物は古代ギリシアや中国で早くから生まれており、そうした点からも、広く解されるべきであろう。
[福島要一]
ヨーロッパの農書についていえば、当然その農法の発展に伴って展開する。中世以前は、ギリシア、ローマ、ゲルマンの経験・技術が伝えられ、畑作は連作であり、収穫が減れば他に移動するといった原始的な農法であった。中世に至って、いわゆる三圃(さんぽ)農法が広く行われるようになり、やがて休閑地に肥料作物がつくられるようになる。17世紀に入ってイギリスでは耕地での牧草栽培が始まるが、この時期にイギリスのウェストンRichard Weston(1591―1652)、マーカムGervase Markham(1568?―1637)らの論説が現れ、これにほぼ1世紀遅れてフランスにデュアメル・デュ・モンソーHenri-Louis Duhamel du Monceau(1700―1782)、ドイツにシューバルトJohann Christian Schubart(1734―1787)の説が現れる。18世紀に入ってイギリスで根菜飼料の栽培が始まり、農業生産力が向上し、農村が変化していくが、この時期にA・ヤング、アンダーソンJames Anderson(1739―1808)、マーシャルWilliam Marshall(1745―1818)らがイギリス農業にかかわって農書を著し、その後ドイツにテーア、チューネンらが出て新しい考え方を主張する。そして彼らに続いてリービヒが化学肥料についての研究を発表するなどし、近代的な農学が成立、発展するのである。
[福島要一]
中国の農書の起源は古く、戦国時代、諸子百家の間に「農家(のうか)」があり、彼らによって神農の名を冠した著作が生まれ、また前漢の氾勝之(はんしょうし)は「区田法」を論じている。農書の完本としての最古のものは北魏(ほくぎ)の賈思勰(かしきょう)による『斉民要術(せいみんようじゅつ)』である。6世紀なかばにつくられたものといわれる。さらに下っては宋(そう)代の陳旉(ちんふ)の『農書』(1149、補訂1153)がある。元代の官選書である『農桑輯要(しゅうよう)』には、それまでの諸農書から材料が集められている。次の集大成は王楨(おうてい)の『農書』(1313)である。ほぼ同じころ魯(ろ)明善の『農桑衣食撮要』が出た。明(みん)代には徐光啓の『農政全書』(1639)があり、これは日本の農書にも大きな影響を与えた。そのほか、『宝坻(ほうち)勧農書』(1590ころ)、『沈氏農書』(1640ころ)、『補農書』(1658)、『梭山(さざん)農譜』(1677)、『農桑経』(1704)などが著され、清(しん)代に入って『欽定(きんてい)授時通考』(1747)が出た。なお第二次世界大戦後、中国でも農書の研究が進み、研究書として王毓瑚の『中国農学書録』(1957)が出された。
[福島要一]
日本の農書として最初にあげられるのは『清良記(せいりょうき)』である。これは戦国の武将土居清良の一代にわたる事績、あるいは領主の問いに答える答申の形でつくられたものであるが、成立の時期は1600年代なかばまでであろうとされる。やや遅れて『百姓伝記』がある。さらに『会津農書』『耕稼春秋』などがつくられたが、これらの著者はすべて兵農分離以前は武家の一族であった者で、のちに農業経営者となった者である。ちなみに『清良記』の著者は領主土居家の一族であり、『会津農書』は被官佐瀬与次右衛門(よじえもん)、『耕稼春秋』は一向一揆(いっき)の侍大将土屋大学の子孫で「十村(とむら)」(大庄屋(おおじょうや))の土屋又三郎によってつくられた。『百姓伝記』の著者は不明であるが、やはり武士から農民になった者と考えられる。これらと異なるのが、江戸中期、学者の宮崎安貞(やすさだ)の手になる『農業全書』であり、その後、大蔵永常(おおくらながつね)が現れ、多くの著作を著した。大蔵永常のあとには佐藤信淵(のぶひろ)の『本草六部耕稼法』があるが、これはむしろ農政学、経世学の書とされる。
以上のような農業指導書のほかに、「往来物」に属するものが1700年代なかばから現れた。習字用・読本用として編まれた往来物の出現は古いが、やがて『田舎(でんしゃ)往来』(1758)あるいは『農業往来』(1763)などが現れ、1766年(明和3)に『百姓往来』が出てこれが評判をとり、のちに続編もつくられた(1803)。
江戸時代末期になると、農民の観察による優れた農書が現れる。木下清左衛門の『家業伝』(1843)、田村仁左衛門吉茂の『農業口伝』(1852)などが注目に値する。なお幕末から明治にかけて蘭学(らんがく)の影響を受けた河野剛の『農家備要』(1871)などが現れた。
日本での農書の研究は第二次世界大戦後盛んになり、近年その気運は強くなった。とくに日本の農書の復刻、現代語訳本が刊行され、一般の人も農書の原典に触れることができるようになった点は大きく、農書研究の入門書的出版物も少なくない。
[福島要一]
『『日本農書全集』全35巻(1977~1983・農山漁村文化協会)』▽『古島敏雄編著『農書の時代』(1980・農山漁村文化協会)』
中国の書名。固有名詞として「農書」とよばれるものに二つあり、一つは宋(そう)代の陳旉(ちんふ)の著作(1149)であり、他は元代の王楨(おうてい)の著作(1313)である。前者は三巻よりなり、上巻が耕種、中巻が畜牛、下巻が養蚕で、華中の農業について述べた内容である。後者は30巻余からなる大部のもので、一般に『農書』といえばこれをさす。内容は「農桑通訣(つうけつ)」六巻、「農器図譜」10巻余、「穀譜」数巻である。著者の王楨は山東省の人で、「農桑通訣」では華北の畑作および華中の稲作について述べ、「穀譜」では従来の作物のほかにコウリャン、ワタが付け加えられている。農具について詳しく、その後の諸書に多く引用されている。日本の農書はこの書に大きな影響を受けている。
[福島要一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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一般に前近代社会において農業の技術的側面を中心に記述された農業技術書。日本では17世紀後半以降に成立した。近世農書は学者の農書と地域農書に大別できる。学者の農書ははじめから農業技術の改良や農業知識の普及を意図し,著者もしくは都市の出版業者が木版本として刊行・販売した文献で,広く民間に流布して多くの読者を獲得,その後の農政や農業技術の改善に深い影響を与えた。地域農書は学者の農書から一定の農学的・技術的影響をうけながらも,著者自身の農事体験をもとに,その地域の土着的・実践的な農業技術を記録したもので,著者が子孫繁栄のために残した家伝書という性格をもつ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…30巻。全体は軍記物語であるが,第7巻が《親民鑑月集》と題されて,清良の農政上の諮問に対して松浦宗案が単に農政の心得だけでなく,土壌,作物の品種・栽培,肥料,農業労働等について詳細な意見を述べているところから,経済史・農業史の立場から《清良記》といえば,この巻をさし,かつ日本最古の農書として紹介されていた。ただし研究が進むにつれて,異本が多く,内容的にも問題が少なくなく,著者も1654年(承応3)に没した土居水也とされる等,その記載事項のすべてが戦国末期の農業事情を記述しているとは断定しがたく,むしろ近世農業への移行過程を示すものとされている。…
※「農書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
[1973~ ]プロ野球選手。愛知の生まれ。本名、鈴木一朗。平成3年(1991)オリックスに入団。平成6年(1994)、当時のプロ野球新記録となる1シーズン210安打を放ち首位打者となる。平成13年(...
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