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田原藩 たわらはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

田原藩
たわらはん

江戸時代,三河国 (愛知県) 田原地方を領有した藩。慶長6 (1601) ~寛文4 (64) 年まで戸田氏が1万石,同年以後三宅氏が1万 2000石で廃藩置県にいたった。洋学者で画家の渡辺崋山はこの藩の藩士であった。

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百科事典マイペディアの解説

田原藩【たはらはん】

三河国渥美(あつみ)郡田原(現愛知県田原市)に藩庁を置いた譜代藩。1601年戸田尊次が1万石で入封,3代続き,1664年三宅氏が1万2000石で入封し廃藩まで12代続いた。

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

たはらはん【田原藩】

江戸時代三河(みかわ)国渥美(あつみ)郡田原(現、愛知県田原市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は成章館。1601年(慶長(けいちょう)6)、かつて当地を治めていた国人(こくじん)領主戸田宗光(とだむねみつ)の傍系で、徳川氏譜代の家臣戸田尊次(たかつぐ)が1万石で立藩。64年(寛文(かんぶん)4)、戸田氏が3代で転封(てんぽう)(国替(くにがえ))になると、挙母(ころも)藩から三宅康勝(みやけやすかつ)が1万2000石で入った。以後明治維新まで三宅氏12代が続いた。小藩だったが、城持ち大名として格式が高く、藩士も多かったため、藩財政はいつも苦しかった。1832年(天保(てんぽう)3)、家老に登用された渡辺崋山は、農業技術の普及に努めていた農学者の 大蔵永常(おおくらながつね)を招いて殖産興業をはかり、備蓄のために報民倉(ほうみんそう)を設置するなど財政改革を進めたが、39年の蛮社の獄で挫折した。71年(明治4)の廃藩置県で田原県となり、その後、額田(ぬかた)県を経て翌年愛知県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

たはらはん【田原藩】

三河国(愛知県)渥美郡田原にあった譜代小藩。関ヶ原の戦後1601年(慶長6)戸田尊次が伊豆下田より1万石で入封。忠能をへて忠昌の代に肥後富岡に移り,64年(寛文4)三宅康勝が三河挙母(ころも)より入封して1万2000石,24ヵ村を領した。その後康雄,康徳,康高,康之,康武,康邦,康友,康和,康明,康直,康保とついで廃藩置県に至る。家中は江戸中期で士分128,足軽115,中間その他134であった。小藩で財政的に苦しく,幕末には沿海警備の負担も重なった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

田原藩
たはらはん

三河国田原(愛知県田原市)周辺の村々を領有した譜代(ふだい)小藩。この地は文明(ぶんめい)年間(1469~87)三河の国人(こくじん)領主戸田宗光(むねみつ)が田原城を築いた所で、その5代目堯光(たかみつ)は今川氏の人質となった松平竹千代(たけちよ)(徳川家康)を奪い、織田信長に送ったことで知られる。戸田氏は今川氏に攻められ没落。近世初頭には、吉田(豊橋(とよはし))城主池田輝政(てるまさ)の臣伊木忠次(いぎただつぐ)が城代として在城したが、関ヶ原の戦い後に池田氏が姫路(ひめじ)に移ると、戸田尊次(たかつぐ)(宗光一族の傍系)がここに1万石で封ぜられて立藩した。1664年(寛文4)忠昌(ただまさ)のとき肥後(熊本県)富岡に転封されると、三河挙母(ころも)から三宅康勝(みやけやすかつ)が1万2000石で就封し、以来12代200年間、三宅氏の支配が続き明治に至った。小藩ではあるが、城持大名と格式が高く、藩士の数も多かったため、藩財政は極度に窮迫した。このため酒井家から持参金付きの養子康直(やすなお)を迎えたり、1832年(天保3)家老となった渡辺登(崋山(かざん))が藩政改革に力を入れるなど対策に苦慮した。格高分合制という家臣団の俸禄(ほうろく)の改革、救荒備蓄のための報民倉(ほうみんそう)の設置、大蔵永常(おおくらながつね)の国産奨励策の採用などが崋山によって行われたが、これらは財政改革を強烈に意識した藩政であった。崋山が、田原藩家老としてよりは画家として知られているのも、藩財政の窮乏が家臣を余業に走らせた結果かもしれない。また、海防にも心を砕いたが、これは渥美半島という地理的条件と無関係ではない。1871年(明治4)廃藩、田原県、額田(ぬかた)県を経て愛知県に編入された。[若林淳之]

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世界大百科事典内の田原藩の言及

【三河国】より

…また,これら大名領と並んで多くの旗本領や天領,寺社領が置かれた。初期(寛永末)のごくおおまかな大名配置をみると,岡崎には本多氏が入って碧海(へきかい),幡豆,額田,加茂郡を中心に5万5000石余,吉田は松平氏に代わって水野氏が支配して宝飯(ほい),渥美,八名郡に4万5000石余,ほかに西尾藩本多氏は碧海,幡豆郡に3万5000石余,刈谷藩松平氏は碧海,額田,加茂郡などに3万石,新城(しんしろ)藩水野氏は設楽,宝飯郡に1万1000石余,田原藩戸田氏は渥美郡に1万石,中島藩板倉氏は碧海郡に1万石,挙母(ころも)(現,豊田市)藩三宅氏は加茂郡を中心に1万2000石を支配していた。他国の大名で三河に領地を持つ大名もあり,たとえば甘縄(あまなわ)藩(相模国)松平氏は碧海,幡豆,額田郡に1万9000石余,石戸藩(武蔵国)牧野氏は八名郡に1800石を持っていた。…

【三宅氏】より

…19年(元和5)康信のときに,伊勢の亀山に移ったが,36年(寛永13)康盛のときに再び挙母に帰った。さらに康勝のとき64年(寛文4)に三河国田原藩万2000余石に転封となり,以後,代々田原藩主として幕末に至った。維新後は子爵。…

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