日本大百科全書(ニッポニカ) 「田原藩」の意味・わかりやすい解説
田原藩
たはらはん
三河国田原(愛知県田原市)周辺の村々を領有した譜代(ふだい)小藩。この地は文明(ぶんめい)年間(1469~87)三河の国人(こくじん)領主戸田宗光(むねみつ)が田原城を築いた所で、その5代目堯光(たかみつ)は今川氏の人質となった松平竹千代(たけちよ)(徳川家康)を奪い、織田信長に送ったことで知られる。戸田氏は今川氏に攻められ没落。近世初頭には、吉田(豊橋(とよはし))城主池田輝政(てるまさ)の臣伊木忠次(いぎただつぐ)が城代として在城したが、関ヶ原の戦い後に池田氏が姫路(ひめじ)に移ると、戸田尊次(たかつぐ)(宗光一族の傍系)がここに1万石で封ぜられて立藩した。1664年(寛文4)忠昌(ただまさ)のとき肥後(熊本県)富岡に転封されると、三河挙母(ころも)から三宅康勝(みやけやすかつ)が1万2000石で就封し、以来12代200年間、三宅氏の支配が続き明治に至った。小藩ではあるが、城持大名と格式が高く、藩士の数も多かったため、藩財政は極度に窮迫した。このため酒井家から持参金付きの養子康直(やすなお)を迎えたり、1832年(天保3)家老となった渡辺登(崋山(かざん))が藩政改革に力を入れるなど対策に苦慮した。格高分合制という家臣団の俸禄(ほうろく)の改革、救荒備蓄のための報民倉(ほうみんそう)の設置、大蔵永常(おおくらながつね)の国産奨励策の採用などが崋山によって行われたが、これらは財政改革を強烈に意識した藩政であった。崋山が、田原藩家老としてよりは画家として知られているのも、藩財政の窮乏が家臣を余業に走らせた結果かもしれない。また、海防にも心を砕いたが、これは渥美半島という地理的条件と無関係ではない。1871年(明治4)廃藩、田原県、額田(ぬかた)県を経て愛知県に編入された。
[若林淳之]