江戸時代中期以降普及した女子教訓書。1716年(享保1)版《女大学宝箱》の本文が最古のもので,末尾に貝原益軒述とあるが,確証はない。彼の著作《和俗童子訓》(1710)巻五〈女子を教ゆるの法〉をもとにして書かれたものであろう。〈女は陰性(いんしよう)なり。故に女は男に比ぶるに,愚かにして目の前なる可然(しかるべき)ことをも知らず〉〈総じて婦人の道は,人に従うにあり〉という女性観に立ち,婚家先での嫁のとるべき態度を説く。夫および舅姑(きゆうこ)への服従を基本とし,〈婦人は別に主君なし。夫を主人と思い,敬い慎みて事(つか)うべし〉〈万のこと舅姑に問うて,其の教えに任すべし〉という。封建社会における家族制度を維持・強化していくための女子教育といえる。明治時代に入っても,同内容の《女大学》と題する本が,数十種類出版された。明治中期以降,《女大学》と教育勅語とを結びつけた教科書が公刊され(1906年刊の加藤弘之,中島徳蔵著《中等教科明治女大学》など),第2次世界大戦終了時まで使用された。これらは江戸時代には寺子屋で読本兼習字用教科書として,明治以降は女学校の修身教材として使われた。一方,西欧思想を取り入れて《女大学》を批判したものとして,土居光華《文明論女大学》(1876),福沢諭吉《女大学評論》《新女大学》(ともに1899)などがある。
執筆者:中江 和恵
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江戸中期以降広く普及した女子教訓書。貝原益軒(かいばらえきけん)あるいはその妻東軒(とうけん)の著とされてきたが、証拠はない。現在では益軒の『和俗童子訓』巻5の「女子ニ教ユル法」を、享保(きょうほう)(1716~36)の教化政策に便乗した当時の本屋が通俗簡略化して出版したものとされる。現存最古の版は1729年(享保14)で、その後挿絵や付録をつけ多くの異版が出た。益軒の原文が結婚前の女子教育を17か条に分けて説いたのに対し、本書は字数を3分の1に減らし19か条に分け、まず女子教育の理念、ついで結婚後の実際生活の心得を説く。一度嫁しては二夫にまみえぬこと、夫を天(絶対者)として服従すること等々、封建的隷従的道徳が強調される。益軒には敬天思想に基づく人間平等観があり、それが原文の基調となっていたが、『女大学』ではすべて捨象されている。明治に至り、『女大学』を批判し、近代社会生活における女性のあり方を説くものが、福沢諭吉(ゆきち)の『新女大学』(1898)をはじめとして数種出ている。
[井上 忠]
『荒木見悟・井上忠編『日本思想大系 34 貝原益軒・室鳩巣』(1970・岩波書店)』▽『石川松太郎編『女大学集』(平凡社・東洋文庫)』
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江戸中期以降広く普及した女子の教訓書。はじめ1716年(享保元)の「女大学宝箱」の本文として説かれた。貝原益軒の「和俗童子訓」のうち「女子を教ゆる法」をもとに取捨されている。女は嫁にいくものとの立場から嫁としての心構えを説く。「女今川」とともに近世の女子教育の一典型をなすが,その「三従」の教えは,前近代的なものとして福沢諭吉以来批判されてきた。「女大学宝箱」は再版されて広く普及。明治期以降も「女大学」の名で同内容のものが続出した。
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