明治時代の国法学者。天保(てんぽう)7年6月23日、但馬国(たじまのくに)(兵庫県)出石藩(いずしはん)の兵学師範の子に生まれる。家学の甲州流軍学を継ぐため、藩校弘道館(こうどうかん)に学んだのち江戸に出る。伝統的な兵学に飽き足らず佐久間象山(さくましょうざん)の門に入り、洋学に転じた。1860年(万延1)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝となり、ここで西洋文明の本質は「武備」よりも「政体」にあるとして政治学に転じ、翌1861年(文久1)わが国で最初に立憲思想を紹介した『鄰草(となりぐさ)』を著し、議会制度の必要性を説いた。維新以後も『真政大意』(1870)、『国体新論』(1875)などで立憲制の紹介に努め、明六社(めいろくしゃ)に加わって啓蒙(けいもう)活動を続けた。
1877年(明治10)新設の東京大学の綜理(そうり)となり、このころからしだいに進化論へと傾斜し、『人権新説』(1882)において、進化論の立場から天賦人権説(てんぷじんけんせつ)を批判した。これは、当時から「転向」と非難され、自由民権派との論争を生んだ。以後、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官、帝国学士院長などを歴任するかたわら、個人誌『天則』を発行し、進化論の立場から国家を根拠づける試みを続けた。『強者の権利の競争』(1893)、『道徳法律進化の理』(1900)などはその成果である。
その最終的な立場は『自然と倫理』(1912)に示されている。それは、「忠君愛国の行為」は「国家を組成する吾吾(われわれ)人間たる細胞の固有性」であるとする国家有機体説である。一貫して明治政府を擁護しその哲学的基礎づけを提供した。
[渡辺和靖]
『田畑忍著『加藤弘之』(1959・吉川弘文館)』▽『『日本の名著34 西周・加藤弘之』(1971・中央公論社)』
幕末・明治期の政治学者,教育家。但馬国(兵庫県)出石藩士出身。初め弘蔵。江戸に出て佐久間象山に兵学,洋学を学び,1860年(万延1)蕃書調所教授手伝となる。在職中ドイツ語を学び,西洋の政治社会を研究して翌年《隣草》を,68年(明治1)《立憲政体略》を著し,欧米の立憲政治を紹介した。《真政大意》(1870)を発表後,73年明六社同人となり,翌年民撰議院設立建白に際し,時期尚早論を展開したものの,《国体新論》(1875)を著すなど,このころまで天賦人権論に立脚した平等思想の啓蒙に努めた。だが,自由民権運動の進展に対応するかたちで,進化論の影響を受けて,その立場を回転させて人権思想の否認に傾斜し,82年《人権新説》を刊行して優勝劣敗の社会進化論へ〈転向〉し,《真政大意》《国体新論》をみずから絶版にした。以後,進化論に立脚して,反天賦人権説を唱え,民権論を攻撃した。90年帝国大学総長,貴族院議員に勅選,1906年帝国学士院初代院長,枢密顧問官に選ばれるなど,終始学界の重鎮の地位を保ち続けた。07年《吾国体と基督教》を刊行して,国体を擁護するとともに,キリスト教を攻撃し続け,それらを《基督教の害毒》(1911)として一書にまとめた。明六社系思想家のなかで,もっとも代表的な絶対主義官僚学者としての生涯を送った。1900年男爵を授けられた。
執筆者:佐藤 能丸
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(山本正身)
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1836.6.23~1916.2.9
明治期の政治学者。但馬国生れ。出石藩藩校弘道館をへて,佐久間象山に学ぶ。1860年(万延元)蕃書調所教授手伝となり,ドイツ学を開拓。維新後侍読(じとう)・左院議官などを歴任。「真政大意」「国体新論」などで天賦人権論を啓蒙し,明六社に参加。民撰議院論争では尚早論をとった。77年(明治10)東京大学初代綜理。81年前記の2著を絶版とし社会進化論に転向。90年帝国大学総長,1906年帝国学士院長・枢密顧問官。
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… 欧米における進化論の啓蒙期と明治の西欧思想のとり入れ時期とが重なったため,日本には大量の西欧思想の一部として,最新の社会ダーウィニズムも流入した。その代表は東大総長,貴族院議員を歴任した加藤弘之である。彼は《人権新説》(1882)を著して,それ以前の自説を撤回し,人間においても生存闘争による優勝劣敗は必然であると力説した。…
…石川,丘の諸著でも進化論にもとづく社会観や人生観がのべられており,そのことは書物の普及のために重要な役割をした。哲学者加藤弘之は,自然淘汰説を知って天賦人権説を捨て,生存競争にもとづく優勝劣敗を社会の原理とする説に転じた。他方,明治後半より大正年代にかけて,当時のいわゆる社会主義者たちが進化論に関心を寄せた。…
…原始儒教的な宇宙万物の主宰としての天の観念,あるいは人間にはア・プリオリに道徳性が賦与されているという儒教的な観念などを媒介として,近代西欧の自然権natural rightsの観念が導入されたところに成立した。天賦人権の思想は,明治初年に福沢諭吉や加藤弘之ら啓蒙思想家によって,対外的独立を達成するために,封建的身分制を打破して人民全体を国家の主体的担い手に高めるという意図と結びついて主張されはじめた。新政府の指導者も,封建的身分制と割拠制を克服して中央集権的国家体制を確立するという関連で,この思想を受け入れ利用した。…
…この使節団には,外交官のほか地理,動植物学者,画家などが随行しており,一行の帰国後,条約交渉の経過のみならず,遠征記録全般が各部門にわたってまとめられ,《プロイセン東アジア遠征》《日本・中国・タイ国図録》《動物篇》《植物篇》として刊行された。これを機にドイツ語を本格的に学んだ加藤弘之は,のちハイデルベルク大学教授ブルンチュリの国家学を《国法汎論》として訳出し,ドイツの国家制度を初めて日本に紹介することになる。 明治に入ると,日本には多くのドイツ人が御雇外国人として招かれた。…
…とくに江戸時代後期には,岡山藩で起こった渋染一揆をはじめ,厳しい支配と差別に対する抵抗が強まった。また幕末期には,加賀藩の千秋藤篤(有磯)や日出(ひじ)藩の帆足万里らが身分解放論を唱え,明治維新期には,加藤弘之や大江卓らが賤民身分の廃止を主張した。明治政府は1871年(明治4),その富国強兵政策の一環として,太政官布告により封建的賤民身分の廃止を宣言した(いわゆる〈解放令〉)。…
※「加藤弘之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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