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加藤弘之 かとうひろゆき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

加藤弘之
かとうひろゆき

[生]天保7(1836).6.23. 但馬,出石
[没]1916.2.9.
幕末から明治にかけての政治学者。佐久間象山のもとで西洋法学を修め,坪井為春に蘭学を学んだ。万延1 (1860) 年に幕臣となり,開成所准教授,大目付勘定頭をつとめた。その間にドイツ語を学び,『隣草』『立憲政体略』を著わし,立憲政体論を初めて日本に紹介した。のちに明治新政府の政体律令取調御用掛となった。 1873年森有礼らと明六社を組織。『真政大意』『国体新論』を著わし共和論,天賦人権論を唱えたが,74年民撰議院設立には時期尚早として反対。 82年『人権新説』を著わし,天賦人権否定論,生存競争説を展開した。 77年東京大学綜理,90年帝国大学総長,さらに貴族院議員,枢密顧問官,帝国学士院院長などを歴任

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デジタル大辞泉の解説

かとう‐ひろゆき【加藤弘之】

[1836~1916]思想家教育者。兵庫の生まれ。初め明六社の一員として「真政大意」などで天賦人権・自由平等を説き、立憲政治啓蒙(けいもう)に努めたが、のち「人権新説」などで天賦人権否定論・キリスト教排撃論を展開。東大総長・枢密顧問官などを歴任。

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百科事典マイペディアの解説

加藤弘之【かとうひろゆき】

幕末・明治の国法学者。但馬(たじま)出石(いずし)藩士出身。佐久間象山兵学洋学を学び幕臣として蕃書調所教授手伝を務めたが,ドイツ語の研究に転じ《隣草(となりぐさ)》《立憲政体略》を著し立憲政体を紹介。
→関連項目大井憲太郎言文一致浜尾四郎ブルンチュリ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

加藤弘之 かとう-ひろゆき

1836-1916 明治時代の政治学者,教育者。
天保(てんぽう)7年6月23日生まれ。佐久間象山にまなび,蕃書調所教授手伝となる。「鄰草(となりぐさ)」をあらわして欧米の立憲思想を紹介し,明六社に参加。明治7年(1874)民撰議院設立論争で尚早論をとなえる。15年「人権新説」を刊行し,進化論の立場から天賦人権説を批判。14年東京大学綜理,23年帝国大学総長。枢密顧問官。帝国学士院長。大正5年2月9日死去。81歳。但馬(たじま)(兵庫県)出身。
【格言など】神が造物主でなくて人間が造神主であると言わなければならぬ(「迷想的宇宙観」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

加藤弘之

没年:大正5.2.9(1916)
生年:天保7.6.23(1836.8.5)
明治期の指導的思想家。初代東京大学綜理。但馬国出石藩(兵庫県出石郡)の生まれ。藩校弘道館に学び,のちに江戸に出て佐久間象山や大木仲益らに入門,蘭学を学ぶ。万延1(1860)年蕃書調所教授手伝となり法学,哲学などと共にドイツ語を学び始める。元治1(1864)年には幕臣となり開成所教授職並に任ぜられる。維新後は新政府に出仕,大学大丞,文部大丞,外務大丞などを歴任。明治8(1875)年元老院議官,10年初代東京大学綜理,さらに23年に帝国大学総長に就任,貴族院議員に勅選される。26年に総長を辞し,その後は宮中顧問官,帝国学士院長,枢密顧問官などを務める。この間,『立憲政体略』(1868),『真政大意』(1870),『国体新論』(1874)などの著作で天賦人権説を展開して,新政府の開明政策を支える。しかし,その主張も15年の『人権新説』刊行のころから社会進化論の立場へと転向し,明治以降の競争社会の進展に思想的土壌を提供する。教育界への提言としては,20年の講演(同年『徳育方法案』として出版)で,諸宗教による徳育を学校で競争的に実施させることを主張し,いわゆる徳育論争のきっかけをつくったことで知られている。このほか,高等教育会議議長として明治後半期の学制改革に尽力するとともに,国定修身教科書にも中心的役割を果たした。<参考文献>村井実『教育からの見直し』,田畑忍『加藤弘之』

(山本正身)

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世界大百科事典 第2版の解説

かとうひろゆき【加藤弘之】

1836‐1916(天保7‐大正5)
幕末・明治期の政治学者,教育家。但馬国(兵庫県)出石藩士出身。初め弘蔵。江戸に出て佐久間象山に兵学,洋学を学び,1860年(万延1)蕃書調所教授手伝となる。在職中ドイツ語を学び,西洋の政治社会を研究して翌年《隣草》を,68年(明治1)《立憲政体略》を著し,欧米の立憲政治を紹介した。《真政大意》(1870)を発表後,73年明六社同人となり,翌年民撰議院設立建白に際し,時期尚早論を展開したものの,《国体新論》(1875)を著すなど,このころまで天賦人権論に立脚した平等思想の啓蒙に努めた。

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大辞林 第三版の解説

かとうひろゆき【加藤弘之】

1836~1916) 国法学者。但馬国出石いずし藩士。維新後、啓蒙思想家として活躍。のち、社会進化論の立場から自由民権論を批判。東大総長・枢密顧問官などを歴任。著「人権新説」「真政大意」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

加藤弘之
かとうひろゆき
(1836―1916)

明治時代の国法学者。天保(てんぽう)7年6月23日、但馬国(たじまのくに)(兵庫県)出石藩(いずしはん)の兵学師範の子に生まれる。家学の甲州流軍学を継ぐため、藩校弘道館(こうどうかん)に学んだのち江戸に出る。伝統的な兵学に飽き足らず佐久間象山(さくましょうざん)の門に入り、洋学に転じた。1860年(万延1)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝となり、ここで西洋文明の本質は「武備」よりも「政体」にあるとして政治学に転じ、翌1861年(文久1)わが国で最初に立憲思想を紹介した『鄰草(となりぐさ)』を著し、議会制度の必要性を説いた。維新以後も『真政大意』(1870)、『国体新論』(1875)などで立憲制の紹介に努め、明六社(めいろくしゃ)に加わって啓蒙(けいもう)活動を続けた。
 1877年(明治10)新設の東京大学の綜理(そうり)となり、このころからしだいに進化論へと傾斜し、『人権新説』(1882)において、進化論の立場から天賦人権説(てんぷじんけんせつ)を批判した。これは、当時から「転向」と非難され、自由民権派との論争を生んだ。以後、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官、帝国学士院長などを歴任するかたわら、個人誌『天則』を発行し、進化論の立場から国家を根拠づける試みを続けた。『強者の権利の競争』(1893)、『道徳法律進化の理』(1900)などはその成果である。
 その最終的な立場は『自然と倫理』(1912)に示されている。それは、「忠君愛国の行為」は「国家を組成する吾吾(われわれ)人間たる細胞の固有性」であるとする国家有機体説である。一貫して明治政府を擁護しその哲学的基礎づけを提供した。[渡辺和靖]
『田畑忍著『加藤弘之』(1959・吉川弘文館) ▽『日本の名著34 西周・加藤弘之』(1971・中央公論社)』

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世界大百科事典内の加藤弘之の言及

【社会進化論】より

… 欧米における進化論の啓蒙期と明治の西欧思想のとり入れ時期とが重なったため,日本には大量の西欧思想の一部として,最新の社会ダーウィニズムも流入した。その代表は東大総長,貴族院議員を歴任した加藤弘之である。彼は《人権新説》(1882)を著して,それ以前の自説を撤回し,人間においても生存闘争による優勝劣敗は必然であると力説した。…

【進化論】より

…石川,丘の諸著でも進化論にもとづく社会観や人生観がのべられており,そのことは書物の普及のために重要な役割をした。哲学者加藤弘之は,自然淘汰説を知って天賦人権説を捨て,生存競争にもとづく優勝劣敗を社会の原理とする説に転じた。他方,明治後半より大正年代にかけて,当時のいわゆる社会主義者たちが進化論に関心を寄せた。…

【天賦人権論】より

…原始儒教的な宇宙万物の主宰としての天の観念,あるいは人間にはア・プリオリに道徳性が賦与されているという儒教的な観念などを媒介として,近代西欧の自然権natural rightsの観念が導入されたところに成立した。天賦人権の思想は,明治初年に福沢諭吉や加藤弘之ら啓蒙思想家によって,対外的独立を達成するために,封建的身分制を打破して人民全体を国家の主体的担い手に高めるという意図と結びついて主張されはじめた。新政府の指導者も,封建的身分制と割拠制を克服して中央集権的国家体制を確立するという関連で,この思想を受け入れ利用した。…

【ドイツ】より

…この使節団には,外交官のほか地理,動植物学者,画家などが随行しており,一行の帰国後,条約交渉の経過のみならず,遠征記録全般が各部門にわたってまとめられ,《プロイセン東アジア遠征》《日本・中国・タイ国図録》《動物篇》《植物篇》として刊行された。これを機にドイツ語を本格的に学んだ加藤弘之は,のちハイデルベルク大学教授ブルンチュリの国家学を《国法汎論》として訳出し,ドイツの国家制度を初めて日本に紹介することになる。 明治に入ると,日本には多くのドイツ人が御雇外国人として招かれた。…

【部落解放運動】より

…とくに江戸時代後期には,岡山藩で起こった渋染一揆をはじめ,厳しい支配と差別に対する抵抗が強まった。また幕末期には,加賀藩の千秋藤篤(有磯)や日出(ひじ)藩の帆足万里らが身分解放論を唱え,明治維新期には,加藤弘之や大江卓らが賤民身分の廃止を主張した。明治政府は1871年(明治4),その富国強兵政策の一環として,太政官布告により封建的賤民身分の廃止を宣言した(いわゆる〈解放令〉)。…

※「加藤弘之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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