後陽成天皇(読み)ゴヨウゼイテンノウ

デジタル大辞泉 「後陽成天皇」の意味・読み・例文・類語

ごようぜい‐てんのう〔ゴヤウゼイテンワウ〕【後陽成天皇】

[1571~1617]第107代天皇。在位、1586~1611。正親町おおぎまち天皇の皇子誠仁のぶひと親王の第1王子。初名、和仁かずひと、のち周仁かたひと。儒学・和学を好み、古文孝経・日本書紀神代巻などのいわゆる慶長勅版本を刊行。

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精選版 日本国語大辞典 「後陽成天皇」の意味・読み・例文・類語

ごようぜい‐てんのう ゴヤウゼイテンワウ【後陽成天皇】

第一〇七代天皇。正親町(おおぎまち)天皇の子誠仁(のぶひと)親王の子。母は新上東門院勧修寺晴子。初名和仁、のち周仁(かたひと)。天正一四年(一五八六)、正親町天皇の養子として受禅皇室の威信回復に努め、同一六年豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくてい)に行幸した。また、国学を好み、「古文孝経」「日本書紀神代巻」などいわゆる慶長勅版を刊行させるなど近世初頭の文化興隆に大きな役割を果たした。元亀二~元和三年(一五七一‐一六一七

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朝日日本歴史人物事典 「後陽成天皇」の解説

後陽成天皇

没年:元和3.8.26(1617.9.25)
生年:元亀2.12.15(1571.12.31)
安土桃山・江戸前期の天皇。誠仁親王の第1王子,母は新上東門院晴子(勧修寺晴右の娘)。初め和仁,慶長3(1598)年12月周仁と改名。天正14(1586)年9月17日立親王。同7月父親王が皇位を継承する前に亡くなっていたため,11月7日正親町天皇の譲位を受けて践祚,同25日即位。慶長16年3月27日政仁親王へ譲位。 その在位期間は豊臣秀吉による天下統一,徳川家康による江戸幕府創設といった時期であり,また戦国期を辛くも生き延びた天皇を始めとする朝廷社会の復権の時期であった。しかし,天正14年12月19日太政大臣に任じられた秀吉は,前関白近衛前久の娘前子を猶子とし,新天皇の女御として入内させ,外戚の地位についた。同16年4月14日の聚楽第行幸は,その行列の華やかさとは裏腹に,秀吉の書いたシナリオ通りに,豊臣政権の実質的な成立を天下に知らせる一面すら持っていた。一方,慶長14年6月の宮女密通事件に対する幕府の措置への不満から,天皇は譲位をほのめかしたものの,家康により延期させられた。翌15年譲位を巡る確執は,近衛信尹日記『三藐院記』に「たゝなきになき申候」とあるように,結果的に家康に屈伏せしめられた。このように,この間朝廷の経済的な復興とあいまって,天皇の即位と譲位や,あるいは古代以来天皇の役割であった改元や官位叙任権までが,幕府主導で再編成されていくこととなった。 学問を深く愛した天皇は,『古今和歌集』の秘訣を伝える細川幽斎関ケ原の戦で丹後田辺城に籠城したため,助けようと勅使を派遣したことで知られている。また,木製活字を作らせ印行させた『日本書紀神代巻』『古文孝経』などは,慶長勅版として高く評価されるものである。詠歌に『後陽成院御製詠五十首』,日記に『慶長六年正月叙位記』などがある。

(藤田恒春)

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改訂新版 世界大百科事典 「後陽成天皇」の意味・わかりやすい解説

後陽成天皇 (ごようぜいてんのう)
生没年:1571-1617(元亀2-元和3)

第107代に数えられる天皇。在位1586-1611年。諱(いみな)は和仁,のち周仁(かたひと)。正親町(おおぎまち)天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第1子。母は新上東門院勧修寺晴子。正親町天皇のあとをうけて即位し,第3皇子政仁親王(後水尾天皇)に譲位。在位中は,豊臣秀吉の皇室奉戴の政策により朝廷の尊厳が一応回復をみる一方,近世封建制のなかに組み込まれていく過程でもあった。秀吉の奏請により1588年(天正16)4月聚楽第に行幸。そのとき,秀吉より京中の銀地子5500両余が御料として献じられた。これらの禁裏御料の献納によりようやく皇室経済が安定するに至り,1601年(慶長6)徳川家康は1万石の御料所を献じた。学問を好み,舟橋秀賢をして四書を進講させ,また廷臣に《伊勢物語》《源氏物語》などを講義。能書家であり,和歌をよくしたが,文化史上の不朽の業績は勅版の刊行で,《勧学文》《錦繡段》《日本書紀神代巻》《古文孝経》《大学》《職原抄》など広範囲に及び,慶長勅版として近世の文芸復興に大きく貢献した。皇弟智仁親王に譲位の意向があったが,家康の反対でならず,さらに09年の猪熊事件に対する家康の処置が天皇の意にかなわず,しだいに幕府との関係に円滑を欠き,憤慨のあまりついに11年譲位。日記に《後陽成天皇宸記》(慶長6年1月)がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「後陽成天皇」の意味・わかりやすい解説

後陽成天皇
ごようぜいてんのう

[生]元亀2(1571).12.15. 京都
[没]元和3(1617).8.26. 京都
第 107代の天皇 (在位 1586~1611) 。名は和仁,のち周仁 (かたひと) 。正親町 (おおぎまち) 天皇の孫にあたる。陽光院贈天皇誠仁 (さねひと) 親王の第1皇子。母は新上東門院藤原晴子 (勧修寺晴右の娘) 。天正 14 (1586) 年正親町天皇の譲りを受けて即位し,慶長 16 (1611) 年に後水尾天皇に譲位した。在位期間は豊臣秀吉から徳川家康,秀忠父子の時代にあたり,皇室が久しい式微の状態から脱して一応尊厳を回復した時期であった。天正 16 (1588) 年には秀吉の聚楽第に行幸 (→聚楽行幸記 ) ,天皇の政治的地位の回復をはかった。学を好み,舟橋秀賢を召して四書の進講を聞き,細川幽斎に和学を学び,みずから『伊勢物語』『源氏物語』『詠歌大概』などを廷臣に講じた。木活字をつくらせ,『古文孝経』『日本紀神代巻』『職原抄』などを印刷させ,いわゆる慶長勅版を刊行させて近世初頭の文運興隆に大きな役割を果した。なお『後陽成天皇宸記』がある。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。

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百科事典マイペディア 「後陽成天皇」の意味・わかりやすい解説

後陽成天皇【ごようぜいてんのう】

正親町(おおぎまち)天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の子。1586年即位。1611年後水尾(ごみずのお)天皇に譲位。在位中は豊臣秀吉の皇室奉戴政策で朝廷の尊厳が回復,聚楽第(じゅらくだい)への行幸もあった。学問を好み,《日本書紀》神代巻などの古典を印行,慶長勅版として文芸復興に貢献した。→勅版

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「後陽成天皇」の意味・わかりやすい解説

後陽成天皇
ごようぜいてんのう
(1571―1617)

第107代天皇(在位1586~1611)。名は和仁(たかひと)、のち周仁(かたひと)。正親町(おおぎまち)天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第1王子。母は新上東門院藤原晴子。1586年(天正14)正親町天皇の養子となり即位。88年、関白(かんぱく)豊臣(とよとみ)秀吉から支度料を贈られ聚楽第(じゅらくだい)に行幸、諸大名から忠誠の誓いを受けた。しかしそれは形式的で、実際は天皇と並んだ関白に諸大名が忠誠を要求されたものであった。92年天皇は宸翰(しんかん)を送り、秀吉の朝鮮渡海を思いとどまらせた。舟橋秀賢(ひでかた)から漢学を、細川幽斎(ゆうさい)から和学を学ぶなど、和漢の学問的教養に造詣(ぞうけい)が深く、慶長(けいちょう)勅版を刊行させた。江戸幕府成立後、政仁(ことひと)親王(のちに後水尾(ごみずのお)天皇)を擁立しようとする徳川家康と対立し、退位。陵墓は京都の深草北陵。

[北島万次]


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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後陽成天皇」の解説

後陽成天皇 ごようぜいてんのう

1571-1617 織豊-江戸時代前期,第107代天皇。在位1586-1611。
元亀(げんき)2年12月15日生まれ。誠仁(さねひと)親王(陽光院)の第1王子。母は藤原晴子(新上東門院)。祖父正親町(おおぎまち)天皇の譲位により即位。豊臣秀吉の天下統一,徳川家康の幕府開幕の時期で,秀吉との関係はよかったが,家康には朝儀にまで干渉をうけた。学問をこのみ,木製活字をつくって古典を印行させた(慶長勅版)。元和(げんな)3年8月26日死去。47歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は和仁(かずひと),周仁(かたひと)。日記に「後陽成院宸記(しんき)」。
【格言など】日にそへてただしき道の嬉しさはつつむ袖なく国ゆたかなり(「後陽成院一夜百首」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「後陽成天皇」の解説

後陽成天皇
ごようぜいてんのう

1571.12.15~1617.8.26

在位1586.11.7~1611.3.27

正親町(おおぎまち)天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第1王子。名ははじめ和仁(かずひと),のち周仁(かたひと)。母は勧修寺晴右(はれみぎ)の女新上東門院晴子。幼称若宮。父の急死により皇嗣となる。豊臣秀吉の政権下で即位し,1588年(天正16)4月聚楽第(じゅらくてい)に行幸。秀吉没後はしばしば譲位の意向を示し,徳川家康の朝廷干渉を容易にした。木製活字を作らせ,和漢の古典数種を刊行(慶長勅版)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「後陽成天皇」の解説

後陽成天皇
ごようぜいてんのう

1571〜1617
安土桃山〜江戸時代初期の天皇(在位1586〜1611)
正親町 (おおぎまち) 天皇の皇子誠仁 (さねひと) 親王の子。祖父の養子となり即位。豊臣秀吉・徳川家康の援助により朝威回復につとめた。1588年には秀吉の聚楽第 (じゆらくだい) に行幸,のち子の後水尾天皇に譲位。学を好み,『日本書紀』神代巻の慶長勅版を刊行した。

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367日誕生日大事典 「後陽成天皇」の解説

後陽成天皇 (ごようぜいてんのう)

生年月日:1571年12月15日
安土桃山時代;江戸時代前期の第107代の天皇
1617年没

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世界大百科事典(旧版)内の後陽成天皇の言及

【猪熊事件】より

…1607年(慶長12)2月,左少弁猪熊教利が官女との密通により勅勘を受けて出奔し,ついで09年7月には参議烏丸光広以下大炊御門頼国,花山院忠長,飛鳥井雅賢,難波宗勝,徳大寺宗久,松木宗信らの若公家衆が前年来典侍広橋氏など5人と遊興にふけり,密通していたことが発覚した。後陽成天皇は激怒し,彼らを極刑に処すべく,その意向を幕府に伝えた。徳川家康は叡慮次第の旨を奏したが,宮廷内部に寛典論も出て,その処分は家康に一任された。…

【三藐院記】より

…1592年(文禄1)より1606年(慶長11)までの日次記(ひなみき)と1585年(天正13)の〈羽柴秀吉関白宣下記〉以下の別記11点がある。欠年が多く記事も概して簡潔ではあるが,天正~慶長期の政治および文芸上の好史料で,1610年後陽成天皇が江戸幕府の種々の拘束によるふんまんから譲位に及ぶ状況を記した部分などはとくに重要である。自筆原本19冊,8巻,4紙が陽明文庫に所蔵されている。…

【書】より

禅宗美術
[安土桃山時代]
 安土桃山時代の文化が豪華絢爛の語を冠せられるように,書の世界においても室町時代の沈滞した空気を排した生新の気風が吹き込まれた。宸翰として後陽成天皇は祖父正親町天皇の薫育によって雄大な書風をもち,とくに大字を得意としたので,社寺の勅額に筆を染めたものが少なくない。その堂々たる風格は桃山時代にふさわしい。…

※「後陽成天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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