聚楽第(読み)ジュラクダイ

デジタル大辞泉 「聚楽第」の意味・読み・例文・類語

じゅらく‐だい【聚楽第】

豊臣秀吉が京都に造営した邸宅。天正15年(1587)落成。翌年、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸大名に秀吉の威力を示した。のち、養子秀次の居所となったが、秀次滅亡後破壊された。大徳寺唐門西本願寺飛雲閣はその遺構。聚楽城。じゅらくてい。

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精選版 日本国語大辞典 「聚楽第」の意味・読み・例文・類語

じゅらく‐てい【聚楽第】

  1. 豊臣秀吉が京都に建てた城郭風邸宅。天正一五年(一五八七完成。翌年後陽成天皇の行幸を得る。のち秀次の居所となったが自刃後破却。大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣・浴室はその遺構とも伝えられる。じゅらくだい。聚落亭。聚楽。

じゅらく‐だい【聚楽第】

  1. じゅらくてい(聚楽第)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「聚楽第」の意味・わかりやすい解説

聚楽第
じゅらくだい

豊臣(とよとみ)秀吉が京都に造営した城郭風の邸宅。位置は京都の内野(一条の南、二条の北、大宮通の西、浄福寺通の東)の旧平安京内裏(だいり)跡にあたる。秀吉の祐筆(ゆうひつ)大村由己(ゆうこ)の『聚楽行幸記』によれば、「長生不老の楽をあつむるものなり」とあり、これが聚楽の名称由来といわれている。工事着工は1586年(天正14)2月、諸国から材木、檜皮葺(ひわだぶ)き、石材、釘(くぎ)などの建築用材を徴発し、諸大名はその普請(ふしん)課役を負った。そのありさまにつき、興福寺多聞院(たもんいん)の僧英俊(えいしゅん)は「去(さる)廿一日ヨリ内野御構普請、大物以下事々敷、諸国衆自身自身之ヲ沙汰(さた)ス、ヲヒタゝシキ事也」(『多聞院日記』)と記している。

 造営には専業化された職人を動員し建築技術の粋を凝らした。庭には名木、奇石を並べ、御殿には七宝をちりばめ、瓦(かわら)には金を塗った。翌87年9月に落成し、秀吉はここに住んだ。諸大名も聚楽第の周辺に屋敷を構え、華麗豪奢(ごうしゃ)を競った。88年1月、秀吉は後陽成(ごようぜい)天皇の聚楽第行幸の準備を始め、同年4月、行幸を受けた。これにより、関白秀吉はその威厳を天下に示した。91年12月、秀吉は関白職を秀次(ひでつぐ)に譲るに先だち、聚楽第を秀次に与えた。しかし、95年(文禄4)7月、秀次が謀反の疑いで高野山(こうやさん)に逐(お)われて自殺するや、聚楽第は破却された。聚楽第の遺構としては大徳寺(だいとくじ)唐門(からもん)、西本願寺飛雲閣(ひうんかく)が現存している。

[北島万次]

『田中義成著『豊臣時代史』(1925・明治書院)』

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改訂新版 世界大百科事典 「聚楽第」の意味・わかりやすい解説

聚楽第 (じゅらくだい)

豊臣秀吉が内裏の西方,内野(平安宮内裏の跡)に築いた公邸。織田信長が将軍足利義昭のために築いた二条邸と同じく,水堀と石垣をめぐらす平城。現在はそのあたりに山里町,高台院町など,ゆかりの地名をのこすのみである。築城は1586年(天正14)正月から開始され,秀吉は翌年9月にここに移り,88年4月に後陽成天皇の行幸があった。91年の末に秀吉は関白の任とともにこれを甥の秀次に譲ったが,95年(文禄4)秀次を追放して切腹させると同時に,聚楽第も破却,新築した伏見城に公儀の場を移し,聚楽第周囲に造られていた諸大名の邸宅も,その城下に移させた。破却の際に建物の一部は社寺に与えられたが,今日聚楽第遺構と伝えられる建物に,その確証のあるものはない。ただ往時の盛観は《聚楽第図屛風》(三井家)や図面等によって知ることができる。東に大手門,北西に天守があり,櫓(やぐら)や塀まで金箔瓦で飾られていた。また御殿の屋根が檜皮(ひわだ)葺きとなっているところに,公家の伝統を意識して造られた様子がうかがわれる。
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百科事典マイペディア 「聚楽第」の意味・わかりやすい解説

聚楽第【じゅらくだい】

〈じゅらくてい〉とも読む。豊臣秀吉が京都の旧大内裏(だいり)跡に建てた城郭風の邸宅。1586年―1587年建築。秀吉は,1588年後陽成天皇の行幸を仰いだが,1591年秀次に譲り,1595年秀次の自刃後破却,一部を伏見城に移した。建物の内容は不明だが,外観は伝海北友松筆の《聚楽第図屏風》その他によってうかがわれ,またその遺構に大徳寺唐門,西本願寺の飛雲閣などがある。
→関連項目狩野永徳後陽成天皇

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日本の城がわかる事典 「聚楽第」の解説

じゅらくてい【聚楽第】

京都府京都市上京区にあった安土桃山時代の末期の豊臣秀吉の政庁兼居館。関白になった秀吉が1586年(天正14)に着工し、翌1587年に完成させた。邸宅(第)としてつくられたが、北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪(くるわ)があり、堀を巡らせた平城(ひらじろ)の形式の城郭だった。江戸時代初期に描かれた『洛中洛外図』には天守に似た構造物があり、天守の存在をめぐって論議がある。九州征伐を終えた秀吉は、聚楽第に居館を移して政務をとった。その後、1591年(天正19)12月に、秀吉は甥の豊臣秀次に関白職と聚楽第を譲り、大坂城(大阪市)に戻っている。秀吉は1595年(文禄4)に秀次を和歌山県の高野山に追放して切腹させたが、秀次の居城となっていた聚楽第を徹底的に破却した。その際、聚楽第の建造物の多くが伏見城(京都市)に移築されたといわれているが、その翌年に起こった地震で倒壊したため、現存していない。なお、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第からの移築を伝承とする建物は多いが、現在のところ聚楽第の遺構と確認された建物はない。聚楽第跡の遺構はわずかな痕跡を残して失われてしまった。◇「じゅらくだい」ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「聚楽第」の意味・わかりやすい解説

聚楽第
じゅらくだい

「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正 13 (1585) 年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同 14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同 16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる (→聚楽行幸記 ) 。同 19年 12月関白を養子秀次 (→豊臣秀次 ) に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4 (95) 年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された。その殿舎の多くは伏見城へ移された。大徳寺唐門,西本願寺飛雲閣および浴室にその遺構がみられる。桃山文化の代表的建築物である。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「聚楽第」の解説

聚楽第
じゅらくてい

「じゅらくだい」とも。聚楽城とも。関白となった豊臣秀吉が現在の京都市上京区,平安京大内裏の故地である内野に築いた城郭風の大邸宅。1586年(天正14)から翌年にかけて造営された。天守閣を構える本丸の周囲に南二の丸・北の丸・西丸の各曲輪(くるわ)が付属し,豪壮華麗な殿舎が建ち並んだほか,内郭を囲む全長約1000間の堀の外側には諸大名の屋敷が配置されていたと伝えられる。88年には後陽成(ごようぜい)天皇の行幸が盛大に行われて秀吉の権勢を天下に誇示した。関白となってこの邸宅に入った豊臣秀次が,95年(文禄4)に自害させられるとただちに破却され,建物は大半が伏見城に,一部が寺院などに移築された。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「聚楽第」の解説

じゅらくだい【聚楽第】

京都の日本酒。酒名は、京都上京にあった豊臣秀吉の邸宅「聚楽第」に由来。「しずく酒」は精米歩合38%で仕込んだ醪(もろみ)を袋吊りで搾る純米大吟醸酒。ほかに純米吟醸酒がある。平成25、26年度全国新酒鑑評会で金賞受賞。原料米は山田錦、祝など。仕込み水は聚楽第跡の名水「金明水・銀明水」。蔵元の「佐々木酒造」は明治26年(1893)創業。所在地は京都市上京区日暮通椹木町下ル北伊勢屋町。

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旺文社日本史事典 三訂版 「聚楽第」の解説

聚楽第
じゅらくてい

豊臣秀吉が京都内野の旧大内裏址に造営した城郭風邸宅
「じゅらくだい」とも読む。1587年完成。翌年後陽成天皇の行幸を仰ぎ天下にその威を示した。'91年豊臣秀次 (ひでつぐ) が関白をつぐとその居所となり,'95年秀次滅亡のあと破壊された。京都大徳寺唐門,西本願寺飛雲閣はその遺構とも伝えられる。『聚楽第図屛風』は当時を知る貴重な資料。

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デジタル大辞泉プラス 「聚楽第」の解説

聚楽第(じゅらくだい)

京都府、佐々木酒造株式会社の製造する日本酒。純米大吟醸酒、吟醸酒などがある。

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世界大百科事典(旧版)内の聚楽第の言及

【安土桃山時代】より

…この折にキリシタン宣教師の追放令を発し,長崎を直轄領にしている。88年には聚楽第(じゆらくだい)に後陽成天皇を迎えて盛大な宴を張った。また刀狩令,海上賊船禁止令を発布し,農漁民から武具を奪うなどして抵抗力を弱め,武士と百姓の身分的差異を明確にした。…

【狩野永徳】より

…その際,宗家を弟宗秀に預けて自分は子の光信とともに一家をあげて天守や城内殿舎の障壁画制作に赴き,褒美(ほうび)として300石の知行を受けたといわれる。信長没後は豊臣秀吉に登用され,85年の大坂城,86年の正親町院(おおぎまちいん)御所,87年の聚楽第(じゆらくだい),88年の天瑞寺,90年の新造御所など,秀吉による大建築の障壁画のほとんどすべてを,狩野派工房による集団制作で次々にこなしていった。この活躍によって狩野派が桃山画壇の中心に座ることになった。…

※「聚楽第」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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